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日本のロータリー史

 農耕民族としての歴史的背景から、集団行動と相互扶助を日常生活の中に取り込み、儒教や仏教に基づいた東洋哲学の影響を受けた日本人にとって、ロータリーの哲学は当然のこととして違和感なく受け止められると主張する人も多く、その一例として、二宮尊徳の教えは、ロータリー発生以前に既にロータリーの精神を説いているという人すらいます。
 ロータリー哲学をある側面から見れば、その意見は正しいかも知れません。しかし、ロータリー哲学そのものは、資本主義経済がもたらした数々の悪弊を補正して、永続的な利潤を確保するために、アメリカの地で生まれた経営理論の哲学であることを忘れてはなりません。
 我々が日本人として潜在的に抱いている儒教や仏教に基づいた奉仕の心も、キリスト教の教えに基づく奉仕の心も、ロータリーが説く奉仕概念とは似て否なる部分も多くあり、これを混同したり安易に解釈する処から、職業奉仕に関する誤解や、profitsを敢えて精神的なものに置き換える過ちが生まれてくるのです。

<二宮翁夜話>

 お湯を手で己れの方に掻けば、湯はわが方に流れてくるように見えるがすぐ向こうに戻ってしまう。反対に湯を向こうへ手で押してやれば、やがて、わが方へ流れて帰る。少し押せば少し帰るし、強く押せば強く帰る。これが天理というものである。それ仁と言い、義と言うは向こうへ押すときの姿なり、我が方へ掻くときは不仁となり、不義となる。人体の組み立てを見よ、人の手は、我が方へ掻くことができるが、また向こうの方へも押せるようにできている。鳥獣の手は然らず、我が方へ取り込むのみ。ゆえに、他人のために向こうへ押すことを忘れるのは、人にして人に非ず、即ち鳥獣なり。あに恥しからざらんや。ただに恥しきのみならず、天理にそむくが故についに滅亡す。我れ常に奪うは益なく譲るに益あり。よくよく玩味すべし。

 日本人のロータリー運動参加は大正初めの頃のことでした。三井物産の現地法人Southern Products がアメリカ合衆国テキサス州ダラスにあり、そこへ九州有田町出身である福島喜三次が社長として赴任していました。1915年、福島は友人に誘われて、ダラスロータリークラブのアディショナル正会員になりました。日本人初めてのロータリアンです。
 1917年暮れに、日本はアメリカに目賀田男爵を団長として財政問題調査団を派遣しました。その中に当時三井銀行の重役であった米山梅吉が加わっていました。米山は、1918年の元旦を福島宅で過ごし、「メキシコの境まで咲く 枯野花」「テキサスの 野の東や 初日の出」他一句を詠んでいます。この時に米山は、福島からロータリー運動の話を聞き、さらに、ゲストとしてダラスクラブの例会に出席したといわれています。それらから、米山はロータリーに対する予備知識を充分身に付けていたであろうと思われます。
 1920年1月、福島は東京転勤となりました。そのおり、ダラスクラブは彼の送別会を開き、その席で福島は日本にもロータリークラブを作るよう激励を受けました。この年の3月に国際ロータリー連合会会長アルバート・アダムスから6月末までに日本にロータリークラブを作ることを条件に福島に特別代表を任命しました。そのため彼は米山梅吉と奔走しますが、当時日本にはロータリー運動に対する関心がなく、6月末までに創立に必要なチャーターメンバー数を集めることができず、期限切れとなってしまいました。期限の延長を国際ロータリーに申し入れたところ、エスタス・スネデコル連合会新会長は、パシフィック・メイル汽船会社横浜支店長のW・L・ジョンストンを共同特別代表に任命することを条件に、期限延長の申し入れを承認しました。そしてついに同年9月1日に東京クラブ創立委員会を、そして10月20日に24名のチャーターメンバーで東京クラブ創立総会を銀行クラブで開きました。初代会長に米山梅吉、初代幹事に福島喜三次が就任しました。

 国際ロータリーのチャーター日付は1921年(大正10年)4月1日で、登録番号は855号でした。これが日本で初めてのロータリークラブ誕生の出来事です。なお、福島はわずか2回例会に出席しただけで、1921年3月に大阪に転勤になり、そこで大阪クラブの設立に関与した後、上海クラブ会員を経て、1932年10月、日本最初のパストサービス会員として東京クラブに再入会しています。
 創立当初の東京クラブの特徴は、会員のほとんどが財界の大御所で占められていたことです。エリート中のエリートから選び抜かれた大企業の社長や、重役といった顔ぶれが並び、弁護士、医師などの自由業の会員は見当たりません。この最初の顔ぶれが前例となって、戦前の日本のロータリーは功成り名を遂げた財界人が入るクラブという錯覚を生み出し、さらに社会的地位とロータリアンの質を混同する過ちを冒すことになります。
 会員が財界人であるがゆえ、金銭を介する「物質的相互扶助」の必要もなく、米山梅吉の方針によってロータリーの奉仕哲学の探究に真摯な態度で取り組み、個人奉仕の原則もよく理解されていた反面、クラブ組織としての管理運営はあまり省みられませんでした。例会日は毎月一回第二水曜日に開かれていましたが、これすらも流会となることが多く、出席率も悪く、また規約に対する関心も薄く、国際大会に代表を送ることもなく、奉仕活動などはほとんどなされていませんでした。

 ところが、1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が起こり、この時の国際ロータリーと全世界のロータリアンの友情と援助によって、東京クラブロータリアンはロータリー運動の何たるやを初めて知らされました。9月4日には国際ロータリー会長ガイ・ガンディガーからの励ましの電報が、さらに翌日には、救済基金として、25,000ドルの送金がありました。この義援金は、国際理解と親善のための基金として貯めていたアーチクランフ基金(現在のロータリー財団の前身)を取り崩したものという説と、RIの災害基金から支出したという説がありますが、いずれが正しいかは不詳です。これが呼び水となって、世界各国の503クラブからの分を含めて、合計89,000ドルの義援金が寄せられました。東京クラブはこの資金で、東京と横浜の小学校188校への備品寄贈、東京孤児院の新築、殉職警察官遺族の援助、木下正中会員の産科病院再建事業をおこないました。東京孤児院は翌年完成し、ロータリー・ホームと呼ばれていましたが、太平洋戦争で消失し、現在は残っていません。ここに、東京および大阪クラブのロータリアンは社会奉仕および国際奉仕の何たるかを身をもって理解し、今まで月一回であった例会を毎週開催するように改め、ロータリーについての勉強をし、もろもろの実践活動にも移りました。

 さて、東京クラブの例会をわずか2回出席しただけで、大阪に転勤になった福島喜三次は、大阪で星野行則とロータリーについて相談しました。星野は1922年(大正11年)シカゴの国際ロータリー本部で事務総長チェスレイ・ペリーに会い、ペリーから熱心に大阪クラブ創立を勧められ、その委任状を渡されました。星野は帰国後、福島と相談して大阪クラブ創立の準備にとりかかり、1922年(大正11年)11月1日に第1回創立準備会を大阪中之島の大阪ホテルで開きました。その時集まった者は、わずか10名にすぎなかったが、その後、人を集める努力をした結果、11月17日に25名のチャーターメンバーで創立総会を開くことに成功しました。ここに、我が国2番目のクラブとして大阪クラブが誕生しました。会長星野行則、副会長村田省蔵、幹事福島喜三次が就任し、登録番号1349号、日付は1923年2月10日でした。

 この時には、すでに1922年の標準クラブ定款が成立していたので、毎週例会が義務づけられていたにもかかわらず、例会は月2回の偶数週金曜日でしたが、この年の8月からは毎週例会となりました。ちなみに、会費は入会金20円、会費年額40円、例会費40円でしたが、毎週例会を開くことになってから例会費は100円に値上げされました。
大阪クラブは、チェスレイ・ペリーの強い影響を受けて設立されたこともあり、管理運営面の充実を図り、出席規定の厳守、例会時間の励行、クラブ歌の制定、親睦会、定款翻訳などが積極的に実行されました。
関東大震災を契機として、日本のロータリー運動は本格的になってきました。しかし、国際ロータリーの各クラブに対する監督指導の目的で、イギリス、アイルランドを除く世界の多くの地域に「地区制」が敷かれ、各地区にガバナーがいて指導の責任をとっていたにもかかわらず、日本にはまだそれがなく、国際ロータリーが「スペシャル・コミッショナー」を任命して、ロータリー運動の発展の指導にあたらせました。この初代のスペシャル・コミッショナーに米山梅吉が任命され、その指導のもとに、大阪クラブをスポンサーとして、1924年(大正13年)8月に神戸クラブが、同年12月に、東京クラブをスポンサーとして名古屋クラブが創立されました。1925年(大正14年)9月には、京都クラブ、1927年(昭和2年)6月には、横浜クラブが創立されました。

 これと同時にロータリー運動の波は、当時日本の勢力下にあった東洋の諸国におよび、1927年8月には朝鮮の京城にクラブができました。その後も1928年12月には満州に大連クラブが、その翌年には、奉天にもクラブができ、さらに1930年にはハルピンに、1931年には台北にクラブが創立しました。

 1926年(大正15年)に米山梅吉は国際ロータリー理事に任命され、この年に、「全日本ロータリークラブ連合会」が結成され。5月15・16日に大阪で「インターシティ・カンファレンス」が開催されました。これが各クラブが一堂に会して共通の問題を討議した始まりでした。この時の議題は、@日本ロータリー連合会を作るかどうか、Aさらに各地にロータリークラブを作るかどうか、Bロータリー存立の本義や実践について広報する方法などについて論議されました。そして1927年10月22日に6クラブ家族を含めて252名が出席して東京で開かれた第2回インターシティ・カンファレンスで、日本、朝鮮、満州を合わせて、「地区」を結成しようという決議をおこないました。しかし、国際ロータリー理事会からは、時期尚早ということで否決されました。翌1928年5月5日に第3回インターシティ・カンファレンスが名古屋で開かれ7クラブ家族を含めて270名が出席し、奉仕の理想の積極的な実現方法を論議し、さらに再度、日朝満一地区制定を決議しました。第3代スペシャルコミッショナーであった、平生釟三郎の強い要請で、ついに1928年7月に第70地区として認められ、初代ガバナーに米山梅吉が就任しました。当時クラブ数が少ない地域を地区として承認することにはかなりの無理があり、日本の強引な提案にアジア各地のクラブからの反発もあり、RIがしぶしぶ承認したというのが真相のようです。その後米山梅吉は、初期の地区活動の育成のため、3期連続してガバナーに就任しました。

 この頃になると日本のロータリアン達は、初期の頃のアメリカ文化直輸入式的な風習も消えて、一方においてはロータリー哲学の真面目な探究をおこなうと同時に、多面においては日本独自の風習に合ったロータリー運動育成をおこなおうとする傾向がみえてきました。そのため、ロータリーの綱領やクラブ細則も、それまでは英語ばかりが用いられていたのに対して翻訳を始めるべきだとの提案がなされました。そして毎年の地区大会では、今日の立場からみても高度な水準に達した論議が、「奉仕の理想」の分析や「ロータリー標語」の解釈についてたたかわされていました。

 しかし、当時のロータリアンの知性の高さに対して、一種異様に感じられるものに、極度に厳格な限定会員制度がとられていたことです。彼らは、ロータリアンとしての高度な知性を磨き、そしてその高度な知性の維持の原因を、ひたすら自分らがエリートであるところにおいているように思われます。このようにしてロータリアンの質ということが、今後さまざまな形で日本ロータリーにおいて問題となってきます。

 1928年(昭和3年)10月1日に、国際ロータリーの第2回太平洋地域大会が東京で開かれたときも、当時の日本のロータリアン達は、ハワイ、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドから来訪したロータリアンを前にして、まことに盛大で有意義な集会をもち、国際理解と友情を深めることに成功しました。また、ロータリーらしく時間を厳正におこなわれ、当時時間に大変曖昧であった日本の社会からも注目を集めました。

 1929年4月27日米山ガバナーのもと、第一回第70地区年次大会が京都で開かれました。1931年8月には井坂ガバナーによって、初めてガバナー月信が作られました。その中で特に業務上の賄賂の厳禁を求め、且つロータリー活動はその六つの綱領の達成に限るべきで、慈善に走ったり、寄付集めに浮身をやつすことのないよう要請しました。1931年7月19日京都で、11クラブ42名が出席して地区協議会が初めて開催されました。そして会員資質の向上や新クラブ設立などが議題となりました。
 1933年(昭和8年)になると、ロータリー拡大と会員層の若返りが一部指導者の間で重大問題となりました。地区大会で若い有望人の入会が要望され、量より質という考え方が現在とは違った意味で前面に強く出てきました。すなわち、金満家で社会の指導者でしかもロータリーの精神を体しているのが質の良いロータリアンと考えられ、現在はそれほどでなくても、将来は財力と指導力と奉仕とに優れた者になる見通しのある若者を、多数入会させることが量の問題と考えられました。

 現代では、質の良いロータリアンというものに、奉仕の精神のみがいわれ、当時のように社会的名声や財力を決して質には考えていません。このように、当時のロータリアンには財力が大きなウエートを占めており、それが現在でもロータリアンは金持ちの昼食会だと、やゆされる一因となっています。

 1922年にヨーロッパで最大のロータリークラブ数を擁するイギリスとアイルランドがRIBIを結成したことから、世界各地でRIの管理から離れて、地域分権を求める気運が高まりました。日本も、日本、満州、朝鮮でRIJMを結成しようとする「ロータリーの日本化」が真剣に論議されました。

 1933年からロータリーの拡大運動とともに、日本的に消化されたロータリー思想の普及が大いにおこなわれ、ロータリーソングなども日本人が作詞し作曲したものが歌われたりしました。「奉仕の理想」「我らの生業」などのロータリーソングはこの一連の「ロータリーの日本化」の流れの中で、1935年(昭和10年)に作られたものです。ロータリー哲学の問題にしても、東洋思想たとえば儒教倫理や二宮尊徳の思想と「奉仕の理想」との相関関係が討論されました。ついには、ロータリーの綱領も日本風な表現をとるべきだとの主張がなされました。これは、1934年(昭和9年)に神戸クラブから提案されたロータリー用語に外国語を廃止し、例会様式の外国模倣をやめて日本式に変え、ロータリー標語をわかりやすい日本語に変えようとする流れを汲むものでした。
 なかでも、1936年(昭和11年)に神戸で開かれた第70地区大会で、神戸クラブの直木太一郎が大会宣言として、大連クラブのロータリー宣言「大連宣言」を採択せよとの動議を提出したとき、会のクライマックスを迎えました。大連クラブの宣言は大連クラブ会員古沢丈作の作で、ロータリーの綱領を翻訳という方法によらないで日本風に表現したものです。

   《 大連クラブのロータリー宣言 》

第一 須らく事業の人たるに先立ちて道義の人たるべし。蓋し事業の経営に全力を傾倒するは因って世を益せんがためなり。故に吾人は道義を無視して所謂事業の成功を獲んとする者に与えず。
第二 成否を曰うに先立ち退いて義務を尽くさんことを思い進んで奉仕を完うせんことを念う。自らを利するに先立ちて他を益せんことを願う。最も能く奉仕する者最も多く満たされるべきことを吾人は疑わず。
第三 或は特殊の関係を以て機会を壟断し、或は世人の潔しとせざるに乗じて巨利を博す。これ吾人の最も忌む所なり。吾人の精神に反してその信条を紊るは利のために義を失うより甚だしきは無し。
第四 義を以て集り、信を以て結び、切磋し、琢磨し、相扶け相益す。これ吾人団結の本旨なり。然れども党を以て厚くすることなく、他を以て拒むことなく、私を以て党する者にあらざるなり。
第五 徒爾なる角逐と闘争とは世に行わるべからず。協力を以て博愛平等の理想を実現せざるべからず、然り吾が同志はこの大義を世界に敷かむがために活躍す、吾がロータリーの崇高なる使命茲に在り。その存在の意義亦茲に存す。

 これに対して、議論は沸騰します。反対論に立ったのは米山梅吉らで、ロータリーの綱領は正式の国際ロータリー大会の議決であり、勝手に日本文によって修正できないものであるとし、賛成論者は、村田省蔵らで、正しい日本語と東洋的思考からロータリー宣言を英訳することによって、逆にこれをロータリーの綱領として正式に提案すべきであると主張しました。中間派が、これは正式のロータリーの綱領を修正するものでもなく、むしろその意味を補充説明するものであるから、このまま地区大会の宣言として採用して差し支えないと主張するに及んで結論に達しました。この宣言文は、この時代のロータリアンの思想の深さと、日本的咀嚼のよい実例とみることができます。

 このようにして、ロータリー運動は思想的に、また組織的にも発展していきましたが、世界はナチズムの台頭とともに軍国主義的になり、ロータリー運動に対する弾圧の魔の手が及んできました。1931年満州事変、1933年国際連盟脱退などをきっかけに、ロータリーという名前や、その本部がアメリカにあることから、秘密結社やスパイと疑われました。

 1935年(昭和15年)に東京の三越で、内務省および陸海軍省の後援のもとで各種の秘密結社のスパイ活動の展示があったとき、その結社の中にロータリーが加えられており、これを知って抗議をおこなったところ、陸軍中将四王天延孝は、「ロータリーはフリーメイソンの一派の秘密結社で、スパイの温床である」と演説したり、また同趣旨のことを書いたパンフレットを配布されることもありました。また神戸では例会でマルクス批判を聞いて会報に載せたということで警察に呼び出され、ロータリーは左翼と関係があるとして取り調べを受けたり、右翼団体や軍部から再三にわたる嫌がらせや、干渉を受けることになりました。神戸クラブの小菅金造は、彼の親友で当時の大阪控訴院長、後に大審院長となった長島毅から「君は知らなくてもスパイの手先になっているんだよ、早くロータリーを退会したほうが安全だよ」と忠告されましたが、これなどは当時の知識人でもいかにロータリー運動について無知であり、誤解していたかを物語るものです。

 クラブ旗の横に、日の丸を掲げ、月初めに君が代を唄うという、現在では極く普通の例会風景も、実は国家への忠誠心を示すために考えられたこの頃の歴史的な名残りであるといわれています。1939年(昭和14年)に、日本のロータリアン達は、なんとかこの弾圧から逃れるためにも、国際ロータリーの監督から独立し、イギリス・アイルランドが組織したRIBIのような自治体を、日本、満州を限界として作ろうとしました。しかし、国際ロータリー理事会の反対で成功せず、ただ、第70地区を朝鮮、台湾、満州を含む三つの地区に分割し、その三地区の統括機関として、“日満ロータリー連合会”が結成されました。この連合会結成は、軍部の矛先をかわすために考えた最後の手段であり、米山梅吉より全権を委譲された東京クラブ芝染太郎が、重大な決意のもと、チェスレイ・ペリーとの交渉に望んだといわれています。

 1939年8月26日第70地区協議会を開催し、9月15日に新しい規約もできあがり、第70地区を3つの地区に分け、第70地区が名古屋以東の20クラブ、第71地区が西日本と台湾の19クラブ、第72地区が朝鮮、満州の3クラブとなりました。そして日満ロータリー連合会初代会長に、米山梅吉が就任しました。この頃よりますます世界情勢が緊迫し、第二次大戦へと突き進んでいくのです。1940年5月5・6日、第1回日満ロータリー地区連合年次大会が横浜で開催されました。その時皇軍に対する感謝と傷病兵士慰問などの件が決議されました。

 これらの日本ロータリークラブの運動にもかかわらず、日本国全体の動きは、ロータリーを認めようとせず、各クラブは動揺しました。例会に憲兵や警察の特高係が参席したり、卓話の内容を事前に警察に提出しなければならない状態になっていきました。そのうえ、日満ロータリー連合会会長米山梅吉が当局に呼び出され、ロータリーの組織機構は大日本帝国に対する反逆であると極言されるにいたりました。1940年(昭和15年)には脱会が相つぎ、ついに全ロータリークラブが国際ロータリーからの離脱を余儀なくされ、解散の憂き目にあうことになりました。この時まで全国に37クラブがあり、そのほかにも台湾に3クラブ、朝鮮に4クラブ、満州に4クラブが存在し、会員数は2122名でした。

 戦時中解散させられ、国際ロータリーを脱会していた各クラブは、東京水曜会、大阪金曜会、神戸木曜会、西宮火曜会、横浜同人会、岐阜金曜会、名古屋同心会、今治木曜午餐会、札幌職能協会など、例会日をクラブ名にしたりして、あたかも隠れキリシタンのごとく密かに活動を続けていました。

 彼らの例会活動をみてみると、組織が壊滅したにもかかわらず、その行事のもちかたがロータリーの例会と変わることなく続けられたことは、驚くべきことです。このことは、国際ロータリー離脱後、日本各地にふみとどまった多くのロータリアン達が、大連宣言にもみられるように、ロータリーを地域社会の良質な職業人の切磋琢磨を通じて、ロータリアン各自の経営感の質を高めようとする個人倫理を中心とする一つの思想開発の世界として理解し、これが一つの確信にまで高められていたことが分かります。会員の中から出征するものがでたり、食料が配給になるなどの時世の中、例会は黙々と続けられました。しかし、第二次大戦末期には、クラブ間の横の連絡も途絶えてしまいましたが、致し方ないことでした。

 このような状況でしたから、戦争がアメリカの勝利に終わると、日本のクラブは一斉に国際ロータリーへの復帰を望みましたが、そう簡単にはいきませんでした。彼らの復帰を阻む最大の障害は、戦争にありがちな戦勝国民の敗戦国民に対する憎悪でした。ロータリーのような相手の身になって考えようとする団体に、この種の感情が作用していたことを知ることは大変悲しいことですが、東京水曜会が、帰米元会員や占領軍司令部関係のロータリアンを通じての働きかけは全くナシのつぶてでした。
 このような暗い時期にさらに悲しい出来事がおこりました。日本ロータリーの創始者で運動の中心人物であった米山梅吉が1946年(昭和21年)4月28日に沼津で死去し、さらに福島喜三次が同年9月17日に死去しました。ちなみにロータリー創始者ポール・ハリスも1946年(昭和22年)1月27日にこの世を去っており、当時全世界的に世代交替の時期を迎えていました。
1947年(昭和23年)3月、東京、大阪、神戸、京都、横浜といったような戦前からロータリー運動において指導性を発揮してきたクラブの役員の合議により、国際ロータリー復帰協議会を組織しました。会長に東京水曜会会長小松隆が就任しましたが、小松が連合軍司令官の追放令の適用を受けるにおよんで、この禍が日本ロータリーの国際復帰におよぶことをおそれて、自ら辞任し、後任に手島知健が就任しました。

 この時、復帰協議会の会計であった東京水曜会の柏原孫左衛門が、国際ロータリーを説得する一手段として、昭和15年に国際ロータリーを離脱した後における日本各地の諸クラブが、現実にどのような活動をしているのかの実態を調べる必要があるとの問題意識から、当時の劣悪な汽車に乗り、北は北海道から、南は九州にいたるまで、各地のクラブの実状をその目で調べて歩きました。その結果、約半数のクラブと約半数のロータリアンで、古きロータリーの伝統を守っていたという事実が明らかとなり、これが国際ロータリーを動かしました。
 他方、国際ロータリー側も決して日本のロータリーの国際ロータリーへの復帰の願望を全く無視していたわけではありません。1947年(昭和22年)には当時、国際ロータリー副事務総長で、後に3代目の事務総長になったジョージ・ミーンズが、インド訪問の帰りに予告もなく東京水曜会の例会に出席し、事実調査をしてエバンストンに戻りましたが、その時のミーンズの態度が、日本側の願望に対してかなり冷たいものであったため、日本側もかなり失望しました。しかし、国際ロータリーの中で、日本復帰に最も好意的な立場をとるイギリスのケンドリック・ガンジーとオーストラリアのアンガス・ミッチェルの決断により、1948年(昭和23年)の国際ロータリー理事会は、ガンジー議長のもとに、日本のクラブを国際ロータリーに復帰せしむべき決議をおこない、次いで翌年の理事会は、ミッチェル議長のもとで、日本のクラブの国際ロータリー復帰のための具体的方針を決定しました。
 この方針を受けて副事務総長のミーンズは国際ロータリー理事会の命を受けて、予告もなく東京に飛来し、復帰協議会の役員と会い、国際ロータリー理事会の決定を伝えました。その内容は、戦前のクラブを全部一度に復帰させることは、労多くして功少ないので、まず日本を経済的に5つに分け、それぞれに1個のクラブを復帰させ、後はそれぞれのクラブの分家クラブとして順次復帰をかなえていくべきであるということでした。これに対して、日本の戦前のクラブは、その歴史的伝統をふまえて受けとめたため、多少の意見の衝突をきたしました。札幌、東京、大阪、福岡についての復帰はまず決まりましたが、残る一つを京都と神戸で争いました。神戸はロータリー運動史上も活動上も重大な役割を果たしてきたクラブです。一方京都は日本の古都です。結局国際ロータリーが折れて、1クラブ増加させ、6クラブの復帰が決まりました。

 戦時中の第70地区はすでに他国の地域に割り振られていたため、第60地区が日本のクラブ群に割り振られました。復帰協議会会長手島知健が戦後初代ガバナーに選ばれました。このようにして戦後の日本のロータリー運動が開始されました。
戦後の日本ロータリー活動の特色を述べると以下のようになると思われます。

 まず第一に、ロータリークラブが日本全国津々浦々にまでできあがったことです。これは一つにはRIの基本方針が拡大に力点をおいたと言うことに原因があるでしょうが、いま一つの大きな原因は、戦前の日本の社会におけるロータリアンが、地域社会に与えたロータリー運動の影響の強さにあるといってよいでしょう。ロータリー運動は偉大な指導性をもつ職業人の社交クラブであるという一般社会の印象があまりにも強かったことが、戦後のクラブ拡大に寄与したと思われます。そして、1952年(昭和27年)には日本全国のクラブをRIが一地区で管理することができなくなり、東西2地区に分割されました。2地区に分かれた時、日本のロータリアンの共通の情報源が必要であるとして月刊誌「ロータリーの友」が発行されるようになりました。
 地区分割はその後も進み、1954年(昭和29年)には4地区となり、1957年(昭和32年)には5地区、1959年(昭和34年)には6地区と増え続け、1996年(平成8年)には34地区、2202クラブまでになりました。

 第二の特色は、運動の中心が奉仕哲学の提唱から、実践の提唱に変わったことです。戦前の日本ロータリアンは、ロータリー運動から経営哲学を学びとろうとし、それを理解することで満足していたようです。もっともこの点はアメリカやヨーロッパのロータリアンにもいることですから何も日本だけの特徴ではないかも知れません。

 日本のロータリークラブの数が増えるにつれて、RIに対する発言力も増し、日本からRI会長が選ばれるようになりました。最初に、RIより指名を受けることに内定していたのは、東京クラブの小林雅一でしたが、彼の急死のため東ヶ崎潔が1969年の会長に選ばれ、また1983年には中津クラブの向笠広次が二人目の会長に選ばれました。また、1970年よりはRI理事に日本人が入るようになりました。国際大会も1961年と1980年に東京で開かれ、2004年には近畿で開かれる予定になっています。

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