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ポール・ハリスの生い立ち
(1) 幼年期〜学生時代
 ウィスコンシン州ミルウォーキー市から南に40Km、ミシガン湖に面したところに、ラシーンという街があります、ロータリークラブ本部のあるエバンストンからは北へ80Kmの地点です。そのラシーンの街で1868年4月19日、ポール・パーシー・ハリスは生まれました。

 彼の家系は、アメリカ東北部ニューイングランド地方のヴァーモント州ウォリングフォードに土着した敬虔なピューリタンである祖父ハワード・ハリスと祖母パメラとの間に5人兄弟の一人として、父親ジョージは生まれました。母はコーネリア・ブライアンといい、近郷の良家の娘でしたが浪費癖があったといわれています。父親のジョージは、祖父の助力でウィスコンシン州のラシーンで雑貨商を開きますが、発明と文筆に熱中し商売をおろそかにしたために倒産し、一家は離散しなければなりませんでした。ポールには兄のセシルと妹のニーナ・メイがいましたが、ポール3歳の時、父親と兄と共に祖父の家(ヴァーモント州ウォリングフォード)へ引き取られ、妹は幼少のため母親と共にラシーンに残ることになりました。そしてまもなく、兄のセシルは伯母に引き取られ、ポールだけが祖父母の家に残って育てられました。このように幼少期のポールはかなりの逆境に育ったのであります。

 それは1871年の暑い夏の夜のことであり、「私の意識の繊細な記録として、この光景が余りにも深く焼き付いているので、生涯消し去ることはできません。」と、ずっと後になって、彼自身はその光景を次のように回想しています。

 「背の高い祖父は暖かくて力強い手で、私の堅く握りしめられたこぶしを取りながら通りを歩きました。それは厳粛な小さな行列であり、その厳粛さは夏の夜の荘厳な静寂と暗さによって、一層強調されました。我々が、快適そうに見える家のサイド・ベランダに近づくと、ドアが開いて、黒い瞳の年配の婦人が明るく灯された灯油ランプを掲げながら、優しく出迎えてくれました。後で、私は、彼女が正確には89ポンドの体重しかないことを知り、たびたび受け取った綺麗に包装された贈り物の包みのことを思い出しました。

 この掛け値なしに素晴らしい人こそ、私の祖母でした。彼女は、分厚く切られた手作りのパン、ピッチャーに入った搾りたてのミルク、皿に山盛りになっているブルーベリーを、セシルと私にだしてくれ、私が夢中で食べているのを見て微笑みました。静かなひとときが我々の間に流れ、私は、即座に祖母と私がすぐに打ち解けあえるに違いないと思いました」

 祖母との信頼関係はその瞬間にできあがったといわれています。この事実は対人間関係の改善を目的とするロータリーにあっては特に重要視すべき要素を持っています。人はしばしば言葉によって人間関係を改善しようとします。しかしこれは誤りであって、まず心と心のパイプをしっかりと繋ぎ、心のパイプが繋がったらその後で言葉は千差万別の形をとって、そのパイプの上に乗って相手方に伝えられるのです。心の連結がもとで、言葉はあとだということを心に銘記すべきであります。

 祖母はその後、彼がアイオワ州立大学法学部に入学するまで、常にポールの良き理解者であり教育者でありました。この祖母が育ったニューイングランド地方は、勤勉・質素・実直な生活習慣のある風土の土地で、これを知らず知らずのうちに、??????????????祖母から身につけていたことが、ロータリー運動の根底をなす出来事となっているといって過言ではありません。彼が後に「われわれが長い年月を顧みれば、ある時には重要だと考えたことも、たいしたことではなく消え失せることが多いものである。しかしまた、それほど重要だと思わなかったもので、かえって、他のことなどはどうでもよいと思わせるほど極めて重要になるものもある。犠牲・献身・名誉・真実・誠意・愛、これらは良い旧式な家庭の素朴で高潔な特質である」と言っています。
今日でも、ロータリー運動のどこかに貴族趣味的な要素が漂っていますが、これは決して単なる貴族趣味ではなく、宗教的自由と良心の自由を求めてアメリカ東北部に移民したニューイングランド人のピューリタニズムに根ざす個人の尊厳と独立とを基調とする極めて程度の高い知性と、ニューイングランド地方の自然の厳しさに対する闘いから得た彼らの飾ることを知らぬ勤勉さをその内容としているのです。

 ロータリー運動はかくして、一切の虚飾と相容れないものであり、平凡ではあっても、その日その日の生活に全力を捧げるという非常に単純な原理に基づくものであり、このことはポールの心の奥底に深く根をおろしていたのです。
祖父はジョージのために再度ウォリングフォードの近くの町に雑貨商を開いてやり、母もここに移り住み、再び一家は楽しい生活に戻り、ガイ、クロード、レジノールドの三人の弟も生まれましたが、父の持前の性格そして母の浪費癖が災いして再び倒産し、一家は離散するにいたりました。この間、兄弟のうちセシルとガイは早死にし、クロードは米西戦争で戦死してしまい、妹のニーナと弟のレジノールドの三人になってしまいます。
ポールのこの逆境の少年期にその性格形成に重要な影響を与えた人が三人いました。一人は前述の祖母のパメラであります。第二の人物は、伯母の夫の田舎医者のジョージ・フォックスです。

 この人は非常に世話好きな人柄で、患者や困った人の救済に熱中するあまり、医療費の請求には目もくれなかったといわれています。人のために奉仕しようとする伯父の生活態度が、ポールの不遇の幼心にどんなに美しいこととして写し出されたことでしょうか。

 宗教的迫害をうけてイギリスから逃れてきた清教徒達が、このアメリカ東海岸に安住の地を見出し、その精神を受け継いだ祖父母に育てられたことや、その環境の中で多感な少年時代を過ごしことが、ポールの心に強いピューリタニズムを植え付け、それが後のロータリーの思想の根底となったことは疑うべくもありません。
第三の人物は、名前が伝わっておりませんが、ある園芸家の存在が知られています。この人は多分ユダヤ人ではなかったかと思われますが、人生のこと、自然のことを夢のように語り伝える能力を持っていたということで、この人の影響を受けてポールはまことに格調高い美文をもって、ロータリー思想を世に説くことができるようになったのだということを初代RI事務総長チェスレイ・ペリーが述べています。

 ポールは子供の頃から聡明で感じやすく、また遊びにおいては統率力をもっていたというから、その気性はかなり勝ち気であったろうと思われます。
少年時代のエピソードに次のようなものがあります。ある土曜日に友人のフェイ・スタッフォードと二人でビアマウンテンといわれる山に登ろうと思いつきました。しかしその時は冬の最中であり、またヴァーモント州のような北部では、日も短いのでそう遠くまで行くつもりはありませんでした。祖母に話せば止められるのが分かっていましたので、ちょっとハイキングに行くのだと偽って出かけてしまいました。

 その日の朝はわりに良い天気でした。元気な二人は途中農家に立ち寄りました。その農家の主人がこんな日は危ないことになるから山へ登るのはやめたほうがよいと注意しました。しかしこれくらいでやめるようなやんちゃな子供達ではありません。ついに山を登っていきました。果たして天候は急変し吹雪になりました。歩くことも困難になって、午後4時頃になると全く視界が効かなくなってしまいました。困った二人はやっと荒れ果てた納屋を見つけて避難しましが、雪はますます激しく道も消えてしまいました。しかし家で待っている家族の心痛を思うと、この納屋で夜を明かすこともできないと考えて、子供心に無謀にも二人は手を携えて吹雪の中へ歩き出したのでした。闇の中を迷い歩くこと数時間どうにか山を降りて、幸運にもグルフ??????????????・ロードという知った道に辿りついて、やっと家へ戻ることができました。まさに九死に一生を得たのでした。
 少年時代のポールは、いたずらが過ぎて学校から学校を転々としなければならないこともありました。まず、ヴァーモント州ラドロー市のブラック・リヴァ幼年学校に入学しましたが、気性が激しく団体訓練になじめず教師を困らせたため転校し、翌年サクストンリヴァのヴァーモント幼年学校を卒業しました。1886年には、ヴァーモント大学に入学しました。しかし、そこで学生暴力集団のリーダーに祭りあげられ、新入生に活を入れた団員の責を負い退学を命ぜられました。この事件で無実の罪であったポールは、一言も釈明しませんでした。祖父はカンカンに怒り、「馬鹿げたおこないはこれでおしまいにするんだ」と、叱りながらも家庭教師を雇って彼を教育しました。

 この退学処分がポールの心に大きな変化を与えるきっかけになりました。自分の自由奔放な性格が祖父母に大きな悲しみを与え、人の信頼に応えることの重要性を深く悟ります。
彼はこの時から腕白ぶりをやめ勉強に熱中し、1888年19歳の時に名門プリンストン大学に入学しましたが、翌年祖父が他界したため、やむなく退学しなければなりませんでした。

 郷里に戻ったポールは、学資を稼ぐために大理石会社の事務職員として就職しました。祖母は伯父のフォックスが引き取ります。ある程度学資もできたため、祖母と相談して大学教育を受けるためにアイオワ州立大学法学部に入学すると同時に弁護士事務所で法律実務の習得を始め、大学を卒業する時には弁護士試験にも合格していました。そしてアイオワ州立大学に行く際、当時新興都市であったシカゴに2〜3日滞在し、そこで故郷ヴァーモント州では見られない都市文明の存在と、そこに営まれる現代的・物質的社会生活の実態をまのあたりに見て、彼にこの都市に対する関心が植えつけられ、これが後日シカゴで生活する心の出発点になったといわれています。

 ポールを愛する祖母は、アイオワ州立大学に出発するに際して彼に人生に対する指針を与えています。「ポール、あなたは世の中の人々に大きな借りがありますよ。一人前になった今、一生懸命働いて、その借りをお返しするような立派な生活をしなければいけません」

 ポールの良き理解者であり、教育者であった祖母も、大学在学中に亡くなり、両親は生きていたが頼りにならず、彼は全く孤独になってしまいます。その後両親はコロラド州デンバーに住み、母は1920年に、父は1926年にそれぞれ亡くなりました。

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