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ポール・ハリスの生い立ち
(2) 放浪期

 1891年にアイオワ州立大学を卒業したポールは、弁護士資格も取得していましたが、通常の人がやるように直ちに弁護士を開業することなく、もっと人生について広い経験を得るために5年間の『放浪:諸国遍歴』の旅に出ました。なぜ彼はこのような旅に出たのかについては、次の逸話が残っています。アイオワ州立大学卒業式で祝辞を述べた先輩が冗談半分で、「弁護士という職業は、人生万般のことについて深い洞察力が必要である。そのために直ちに弁護士を開業することなく、5年間くらい、諸国を遍歴し人生の機微に触れ、そして学び、いろいろな人と付合い、諸々のことを学び、その後開業すれば素晴らしい弁護士になるであろう」という趣旨のことを述べました。彼の同級生で、これを真面目にとり実行に移したのはポール一人だけでした。しかし、彼は経済的に恵まれていなかったので、生活費を各地で稼がねばなりませんでした。

 最初の旅は、ロッキー山脈を越えて太平洋岸の北西部に出て、さらに南下し、カリフォルニア州サンフランシスコでは、有名な新聞サンフランシスコ・クロニクルで通信員となり、次に南カリフォルニアの農業の中心地フレズノではレーズンの箱詰工場の工員として、ロサンゼルスではロサンゼルス商科大学の講師として、コロラド州デンバーでは俳優となり多くのファンを得、ロッキー・マウンテン・ニュースの記者として、また農場のカウボーイとして、それが終わるとザ・リバブリカン新聞の記者となり、その後フロリダ州のジャクソンヴィルに移り、一流ホテルであるセント・ジェイムスの夜勤事務職員となりました。その間いろいろな職業体験だけでなく、多くの職場で友人を作ったといわれています。

 その後このジャクソンヴィルで、大理石と花崗岩採掘業を経営するジョージ・クラークと出会い、彼の会社の外勤営業部員になりました。

 この時より、クラークとポールの「心の付合い」が始まります。後日彼は、ジャクソンヴイルロータリークラブを創立してロータリーの拡大に大きく寄与すると共に、1911年全米ロータリークラブ副会長として会長ポールを支えるのです。
1893年3月クリーブランド大統領の就任式を見るために首都ワシントンを訪れ、ザ・ワシントン・スター紙の新聞記者の仕事をし、それが終わるとクラークの外務営業部員として、ケンタッキー、テネシー、ジョージア、ルイジアナの諸州を廻りました。
この年にも彼は死にかけるような危機に遭遇しています。ルイジアナ州のブラスの町にオレンジ摘みに雇われました。このブラスは大河ミシシッピの海にそそぐところに近い町でした。オレンジ園の持主はイタリー系のピザッチでした。彼らは河の堤と同じ高さのところに立っている同氏の倉庫を住家として働いていました。

 ある日曜日、ポールは仲間の4、5人と小舟で河をわたって牡蠣を採りに出かけました。午後になって帰ってくるとき、すでに強い風が吹きだし、河を渡るのが難しいくらいでした。なんとか家に帰りつくことができましたが、あまり風が強いので、高いところに建っている倉庫では危険と思われたので、ピザッチの許しを得て、彼の家に避難しました。夜になるにつれ暴風雨はますます荒れ狂って、近所の人々も多数この家に逃げてきました。

 ところが夜中、突然水が押し寄せてきました。人々はやむをえず高いところにある倉庫へ逃げました。ポールも8歳ぐらいの少女を一人肩にのせて、胸まで水に浸かりながら倉庫に避難しました。朝になって、暴風雨は去りましたが、見渡す限り立ち残っていたのは誠実な大工の建てたこの倉庫とピザッチの家だけでした。この1983年のハリケーンは激しいもので、ある島では住民全員が流されてしまい、このブラスの町でも多くの人の命が奪われてしまいました。ポールはこのときも危うく難を免れたのでした。

 この頃、ポールの頭にイギリスを訪れるというアイディアが浮かんできました。それを実行するために、ジョージ・クラークの会社を辞職しました。第1回目のイギリス行は家畜運搬船の水夫として大西洋を渡りましたが、積荷を降ろすと直行で帰国してしまいました。そのためポールは大変失望して、再び渡英を企画して資金作りをし、出発しました。今度は十分ロンドンを見物することができたばかりか、その帰りにウエールズ地方を見物することができたのです。
アメリカに帰国後、すぐ1893年にシカゴで開かれた万国博覧会を見物し、博覧会の規模の大きさと全世界からの出品から強い印象を受けました。何かの因縁か、日本のロータリーの生みの親米山梅吉と、後の大阪ロータリークラブの土屋元作(号して大夢)もこの博覧会の日本館で通訳をしていたということです。万国博覧会の後、西部のニューオリンズ訪問を計画し、市内で職を求めようとしたが職にありつけず困っていた時に、心の友ジョージ・クラークのことが頭に浮かび、ジャクソンヴィルに向かいました。クラークはポールの訪問を喜び、再び同社の大理石販売員として採用し、アメリカ南部諸州を訪れさせ、キューバやパナマ諸島まで足を延ばさせたといわれています。そしてこの旅行が終わるとクラークは、他にどこか行きたいところはないかと尋ねた時、ヨーロッパに行きたいと答えたので、直ちにクラーク大理石会社代理人に任命され、スコットランド、ベルギー、イタリア、スイス、オーストリア、ドイツ、オランダの諸国を漫遊することができました。
このように諸地方への長期間にわたっての旅行は、若い法律家に対して強い印象を与え、彼はそこで人類というものがその伝統と慣習の相違からさまざまな思索と制度とをもつものであるにもかかわらず、その根本は善意と友愛に支えられていることを知ったのです。この彼の生活経験と理解とが、無意識にではあったがロータリー運動が国境を越え全世界に受け入れられる基盤を作り上げたということができるでしょう。

 このようにして、5年間の放浪生活を終えようとしていたポールは、弁護士開業のためクラークに辞職を申し出ました。クラークはポールの人柄を惜しみ、「ここで一緒に仕事をすれば金を儲けることができるはずだ」と引き留めようとしたが、ポールは、「そうかもしれませんが、私はシカゴに金儲けのために行くのではありません。人生を生きるために行くのです」と答えたのです。ポールの気性をよく知っているクラークは、「では最後にどこか行ってみたいところはないか」と聞いたところ、ポールは、「ニューヨークへ行きたい」と答えました。クラークは、「では決まった。ニューヨークに出張を命ずる」と言いました。「心の友なるかな、クラーク、まこと雅量と温情あふるる友なりき」と、ポールの自伝「ロータリーと我が生涯」に記されています。
1892年アイオワ州立大学を卒業してから、シカゴに落ちつくまでの5年間、ポールは遍歴を続けましたが、どんな場合にも無賃乗車などをしたことはありませんでした。彼はどんなに未知の都市に行っても、到着早々に独立の生計をたてる職に就く技量をもっていました。彼を知る友人は、それを「奇異の才をもつ男」「不思議な能力をもつ男」と呼んでいました。
「ポールの行くところ、なぜ必ず職にありつけるのか?」の問いに、次のように簡単に答えています。「常に服装を整えて身辺によく注意の行き届いていること、精神労働であれ、肉体労働であれ、与えられた職務に全力を尽くすことを常に忘れず働くことを目標にする」

 彼の漫遊中、いたるところで笑いを誘発し、歩々清風をおこすといわれています。アメリカ全土に心の友を得、後にクラブ拡大の時にその成果が現れるのであります。

 ポールはシカゴへ来て後、当時あったプレイリークラブの会員となりました。このクラブはハイキングを目的とする社交クラブのようなものでした。ある日ハイキングに加わった時、ポールの服の破れたのを見つけて繕ってくれた優しいスコットランド娘のジーン・トンプソンと知り合いになり、互いに愛するようになって、1910年結婚したのです。
ポールはシカゴ郊外にあるロッグウッドドライブの景色が、幼い時を過ごしたウォリングフォードの谷に似ているのを愛してここに家を建て、この家をカムリーバンクと名付けました。これは妻ジーンが若い時住んでいたエジンバラの街の名前を取ったものでした。彼らはここに35年間住みました。

 訪れたロータリアンも数多く、ハリス夫妻の歓待を楽しんだのです。また、奇しくも彼らの隣人はロータリー創始者の1人、シルベスター・シールでした。


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