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初期ロータリークラブ例会

 初期ロータリークラブの活動の中に、今日の世界中のロータリークラブの大原則や一般的慣習になっているものが数多く見られます。

 まず第1に、「一業種一会員制」の導入があります。この点については前にも触れましたが、もともとこの「一業種一会員制」はポール・ハリス自身の思索の中から生まれでたものです。というよりも、この原則に気がつくことによって始めて、ポールは自信をもってシカゴの都市生活の中で苦しんでいた職業人の社交の場を作ろうとすることができた、といっても過言ではありません。このように「一業種一会員制」の原則はあらゆるロータリーの原則のうちのナンバーワンであると同時に、今日でもその大黒柱的原則をなしているのです。

 第2は、このクラブ内における政治上および宗教上の論争の禁止です。古来クラブの中には、政治結社や宗教的資格を前提とするものがあり、いずれも政治勢力の交替と宗教的信条の対立の消長にクラブそのものの運命が巻き込まれ、そのために本来親睦を目的としたクラブが、派閥抗争の中に悲惨な最期をとげる例は枚挙のいとまがありません。

 ロータリーは本来、社会的に意義を認められた職業に従事するものなら誰でも積極的に参加できるのですから、その人の政治理念や宗教的信条の如何を問うものではありません。大会社の社長だけが会員となるのではなく、理髪店の店長も、労働組合の役員も入会の資格があります。また、カトリックの神父も仏教の僧侶も神社の神官も会員となることができるのですから当然の原則と考えられます。このことは逆に見ると、各個人の個々の政治活動や宗教活動を容認したことになり、ロータリークラブのその後の発展を非常に容易なものにしました。

 第3に、会員は相互にファーストネーム(日本流にいえば姓でなく名)で呼び合う慣習がおこなわれました。このことは日本を除く大多数の国でおこなわれています。これによって、みんなが童心に還って心おきなく話し合う雰囲気が生まれたといわれています。日本においても東京クラブ、大阪クラブで少しばかりおこなわれましたが、日本の慣習に親しまず、すぐに廃止されました。

 第4に、この和気あいあいたる出発点として、歌を合唱する慣例が生まれました。この慣例は、ハリー・ラグルスの提案でした。無口で頑固者で貧乏なこの印刷屋が、入会の時には親睦という活動には不適格者ではないかと疑われたにもかかわらず、この提案によって不朽の名声を博し、輝かしい伝統をロータリーに加えることになりました。
初めて歌が唄われたきっかけは次のようなものでした。1905年、相互扶助と親睦を目的として発足したロータリークラブが、1906年2代目会長アル・ホワイトの時、あることから対社会的目的を持った奉仕という概念を漠然と自覚し始めます。この奉仕の概念がそれまで自分達だけのことを考えていた親睦と全く相反するものであるため、クラブが二分され議論百出となりました。クラブ分裂の危機をはらみながら1907年3代目会長ポール・ハリスに引き継がれました。しかしクラブ内は分裂したような状態が続き、往年の親睦の雰囲気がなくなっていた時、突然ハリー・ラグルスが「諸君!!、歌を唄おう」“Hell Fellows Let's Sing"と呼びかけ、これがきっかけとなり大合唱となり、再び友愛心を取り戻させ、人々はクラブ活動に専念するようになったということです。

 第5に、会務に関する互譲の精神があります。多数の会員の信頼がなければリーダーになれぬということであれば、役員に選ばれることは誠に名誉なことであり、これが会員の名誉欲をそそります。この悲しい人間の本性に挑戦したのがポール・ハリスです。彼はこのクラブの創立者中の創立者であるにもかかわらず、1905年にはあえて会長につかず、一般会員として留まります。そして前にも触れましたが、初代会長にシルヴェスター・シール、初代幹事にウイリアム・ジェンスン、初代会計にハリー・ラグルスが就任します。そして彼らは、特殊な事情のないかぎり役職を1年で交替するという慣例を作り、今日全世界の一般慣習となるにいたっております。

 第6に、この当時のロータリー運動の中心は、何といっても会員相互間の職業上の扶助にありました。彼らは2週間に1回、定例の会合を開き、そして職業上のいろいろな問題を語り合いました。その中には、経営上の問題、金融の問題、生産性向上の問題、労使の問題などを協議したり助言を与えたりするだけでなく、会員間の取り引きの報告までおこなわなければなりませんでした。これが、今日世界中でおこなわれている「卓話」の慣例となりました。それゆえ、卓話には会員相互の職業上の情報交換という意味を持っているのです。

 第7に、会合の時間厳守という点があります。ロータリアンは互いに忙しい身ですから、その会合は定刻におこなわなければなりません。この点はアメリカ人気質としては当然のことでありますが、時間にルーズな当時の日本人にとっては大変な特色となりました。日本人ロータリアンの時間厳守は、日本社会における顕著な事実となり、これがロータリアンの信用を高める一因となりました。クラブによっては遅刻者から罰金を取って、これを社会奉仕の一財源としているところもあります。

 第8に、例会で食事を共にする慣習が始まりました。その誕生は1905年のことといわれています。1905年5月4日第6回の会合はハリー・ラグルスの印刷工場で開かれました。この時、チャールズ・A・ニュートンが遅刻してきたので、みんなが非難したところ、「忙しくて、朝から何も食べていないんだ。腹が減っていたので食事をとってきたのだ」と言い訳しました。それではこれからのクラブ例会でみんなで一緒に食事をしよう、ということになりました。一度食事を共にしたら、人々は互いに気分が開放的になって、和気あいあい親睦の実が大いにあがったといわれています。その後、毎例会に食事を一緒にすることを始めたのは、1909年のカリフォルニア州オークランドクラブであります。

 第9に、家族会があります。家族会ができたのは、1907年のことです。接待役として、初代親睦委員長にネフ博士が任命され、彼の温和な性格と丁重な物腰のため家族会は確立され慣例となるにいたったのです。1907年の最大の家族会はネフ博士の労をねぎらうために彼を主賓として開かれたという話が残っています。

 第10に、会員名簿に写真を入れる慣習があります。1908年に初めて写真入りの会員名簿の作成がおこなわれました。このアイディアはシルヴェスター・シールのものであるといわれていますが、当時は写真を嫌がるものもあり、会員236名中写真を撮らせたのは65名にすぎなかったといわれていますが、1912年になり、大部分の人が写真を載せるようになったといわれています。

 第11に理事会の先議権があります。1909年のある日、木材商の会員がスピーカーになった時、木材建築こそが自然的建築構造であると説き、その話が優れていたので、他の会員が緊急動議を提出し、「レンガよりも木材の家屋が優れている。」旨の決議を求め、可決されました。するとそれが新聞に報道され、レンガ業界の猛反対に遭いました。クラブ理事会は、緊急会議を開き、一切の案件は理事会が先議して後に、総会に諮るべき慣例が確立されました。
最後に例会場のことがあります。第7回目の会合は5月18日にアル・ホワイトのオルガン工場で開かれることになっていましたが、その時、アル・ホワイトがホテルで例会を開催すべきことを主張しました。しかし、初代会長のシールが予算が無いといったところ、室料のかからないホテルを探そうといいました。適当なホテルが見つかり、そしてホテルでの第1回の会合をポーマ・ハウスで開きました。それが大成功だったので、第2回目の会合をプレボールド・ホテルで開き、第3回目をシャーマン・ハウスで開きました。

 このようにして例会場持ち回りの慣例が、職場持ち回りからホテル持ち回りとなりました。クラブが拡大され、メークアップ制度ができるようになってから、例会場固定の慣例に移り変わっていくのです。
ともあれ、このように考えてくると、今日の世界中のロータリークラブの慣例のほとんどはシカゴクラブの会員達の独創であることが分かります。

 今日の世界中のロータリークラブがおこなわれている慣例に無いのは、例会開催を毎週することです。初期にはシカゴクラブのように、例会は隔週でした。

 しかし1909年に創立された全米第3番目のオークランドクラブの例会は毎週でした。毎週例会のほうが親睦の機会が多くなり、クラブ活動が盛んになるということで、だんだん毎週例会に切り替えるクラブが多くなりました。
 1922年のロサンゼルス大会で、それ以降に創立されるクラブに対して「標準クラブ定款」の採用を義務づけた時、例会は毎週1回開催しなければならないことになりました。

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