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国際ロータリーの発展

 1907年ドナルド・カーターの入会によって、世のため人のためという考え方が生まれ、何かしら対社会的意義を感じたロータリーでした。そしてポール・ハリスとドナルド・カーターは、世のため人のためにということであれば、なにもシカゴの街だけでなく全米の商的諸都市にクラブがあってもよいのではないかと考えました。今でいう拡大の気運が芽生えてきたのです。

 しかしながら前章で述べたように、親睦一辺倒のクラブに、世のため人のためにという奉仕の考え方と、拡大という厄介なものまで持ち込んだために、クラブはもめにもめてしまいます。ポール・ハリスの方針に積極的に賛同したのは、ドナルド・カーターや1908年に入会したアーサー・フレデリック・シェルドンなどの少数派であり、クラブ内で圧倒的多数を占めていた「親睦・互恵派」との間で繰り広げられた論争の激しさは、想像を絶するものだったようです。

 ポールは過ちをおかして居座ったといっていいような第4代目の会長就任時に、クラブに宣伝拡大委員会を設置し、迷わず初代宣伝拡大委員長にシェルドンを任命します。ここでいう宣伝とは、単にピーアールするという意味ではなく、ロータリー思想を地域社会に蔓延させるということであり、拡大とは、ただ単に新しいクラブを作るというだけでなく、ロータリー思想を蔓延させるヘッドコーターとしてクラブを作ることであります。

 1908年に2番目のサンフランシスコクラブが、1909年に3番目のオークランドクラブができ、同年ロサンゼルスクラブ、シアトルクラブ、ニューヨーククラブ、ボストンクラブと次々新しいクラブが誕生しました。しかしながら奉仕の理念の提唱と拡大は、なかなか至難のことでした。現在日本のような交通機関の発達した国でも、一つのクラブを作るのに最低6ケ月から1年、2年の歳月を要します。20世紀初頭のアメリカにあって、1908年から1910年の3年間に15ものクラブを作ったのですから、大変な犠牲が払われたと思います。2番目のサンフランシスコクラブを作るにしても、延々3000Kmを大陸横断鉄道に乗り、長時間かけて現地に乗り込み、設立の準備をおこない、またとってかえしてシカゴクラブで報告し、理解を得るといったように、並大抵のことではなかったと思います。

 しかも、ポールやシェルドンの話す拡大のことなど猛反対こそあれ、耳を貸すものなどありませんでした。その中で、ポールとシェルドンは一心に拡大に打ち込み、やめることをしませんでした。ついにクラブの会員は、ポールがいうのならまだしも、新参者のシェルドンなどのいうことは聞けないと、例会においてシェルドンの宣伝拡大委員長罷免の緊急動議が出されるにいたりました。

 現在では、理事会の先議権でもって撤回させることが可能ですが、当時としてはそのような規則がなく、例会がすぐに総会に変わることが可能でした。そこで討論決議したところ、シェルドンの宣伝拡大委員長罷免が決定しました。それを見ていたポールは、自分が信任して命じた委員長が罷免になるということは、会長不信任と同じであると考え、任期半ばにして会長職を下ります。

 親睦派のハリー・ラグルス、チャールズ・A・ニュートン、ドクター・ネフらがその収拾のために集まり、後任人事について協議します。その結果、全員一致でハリー・ラグルスを会長に推挙し、彼もこころよく承諾して任期半ばの会長職に就任します。ハリー・ラグルスの人物像は前にも述べたように、ロータリーソングの生みの親であり、クラブ親睦を大きく盛り上げた立派な人です。

 さてここで問題の宣伝拡大委員長を誰にするかということで、いろいろと意見が出されましたが、これも全員一致して、チェスレイ・ペリーに白羽の矢を立てます。チェスレイ・ペリーは、学生時代よりグループ活動の管理に優れた才能を持ち、その事務管理能力については超一流でした。またクラブ会員の尊敬をも一身に集めていました。彼らはこのチェスレイ・ペリーを呼び、奉仕奉仕で失敗したシェルドンの後を継いで宣伝拡大委員長をやってほしいが、なぜシェルドンがこの宣伝拡大委員長を罷免されたかは君もよく知っているだろうが、シェルドンのように奉仕奉仕、拡大拡大と目くじらを立てないで適当にやってほしいと因果を含めます。すなわち親睦派の人々は、チェスレイ・ペリーの持つ管理能力をもって、奉仕派の独走を押さえるための布陣でした。

 さて宣伝拡大委員長に就任した途端、チェスレイ・ペリーは奉仕派を押さえるどころか、ポール、シェルドンの方針を全く踏襲して、さらに発展させていったのです。これによってクラブはまた、奉仕派、親睦派に分かれて、しらけムードが漂う雰囲気になっていきました。

 チェスレイ・ペリーがこのように寝返ったのにはそれなりの理由があります。それは、チェスレイ・ペリーが宣伝拡大委員長に就任した夜に、ポール・ハリスから長い長い電話があり、二人で何かを話し合っていたという事実があります。ポールの晩年の追想録に、その時自分は、チェスレイ・ペリーに何をいい、何を話したか、またチェスレイ・ペリーがなんと答えたか今は記憶にないが、チェスレイ・ペリーは自分がいったことをよく理解し、納得して確認してくれたと結んでいます。

 このようにして、親睦派の計画も水泡に帰してしまいましたが、チェスレイ・ペリーはシェルドンと異なり、偉大なる組織管理者です。クラブがだんだんと荒れていくのを見ながら拡大を続けるとともに、自問自答します。ロータリークラブには親睦というものが必要であるのか、そして無くてはならないものなのか?、明らかに答えはイエスです。では翻って、ロータリークラブには奉仕、すなわち世のため人のためにということが必要であるのか?これも答えはイエスです。

 しかしながらよくよく考えてみますと、親睦は内に向かう力であり、奉仕は外へ向かう力で、その住む世界が全く違います。たとえれば水と油の関係のようで、親睦を主にやろうとすれば奉仕ができなくなり、奉仕ばかりやるとクラブが二つに割れてしまいます。この相矛盾する親睦と奉仕を調和させるものが何かあるのではないかと考えます。

 そして熟慮のすえ、「この相矛盾する親睦と奉仕(=拡大)を一つのロータリークラブの中でやろうとするから無理があるのだ。この厄介な奉仕(奉仕理念の追求・提唱・拡大)には大変な時間と労力、そして費用がかかる。この部分を別枠の団体に請け負わしておこない、クラブは主として、親睦の場として活動していってはどうか」と考えが帰着します。

 1910年当時、全米でシカゴクラブを入れて16のクラブができあがっていました。そこで、その16ロータリークラブの連合組織体をつくって、奉仕の部分だけをこの団体に請け負わす、いわゆる連合組織体構想を生み出します。善は急げで1910年、チェスレイ・ペリーはシカゴに各ロータリークラブの代表を集め、この構想を打ち明け協力を求めました。その結果、各代表は早速クラブに持ち帰り、賛成の議決を送ってきますが、言いだしのシカゴクラブだけが最後まで難色を示します。

 その理由はロータリークラブと連合組織体との位置づけの問題でした。すなわち連合組織体がシカゴクラブより上にあるのかそれとも下にあるのかという問題です。もし上だとすれば、ロータリークラブを作り、今は15の子クラブを生み、今また孫のような連合組織体の下では到底承服できないというのが理由です。また連合組織体が下であるというのも常識では考えられません。上だ下だと議論百出してなかなか決まりませんでした。議論のすえ、対等ではどうかという意見が出てきます。

 この対等論にもいろいろと難点がありました。この連合組織体はシカゴクラブの活動の自由を奪うものになるとされ、この考え方が大勢を占めていたといわれています。そのうちに、各クラブの自主独立性を認めた上で、各クラブの協調をおこなうことは可能であるが、あれはしてはいけない、これもしてはいけないということであれば、絶対に許せないという具合に主張が変わり、最後に、アメリカ合衆国でも、それぞれ独立した各州を作ったのだから、各クラブの独立性を保障した上で、全米的な立場から高次の団結をおこなってもよいのではないかと考えるようになりました。そして、全米ロータリークラブ連合会National Association of Rotary Clubsなる組織体ができあがります。

 初代会長の選出にあたり、シカゴクラブを除く15のクラブは、生みの親であるシカゴクラブより初代会長を選ぶのが妥当であると申し入れ、シカゴクラブで人選することになりました。創立者のポール・ハリスに初代会長の声があがりますが、この2〜3年間親睦派と奉仕派とでクラブを二分したのもポールだということでなかなか決まりませんでしたが、1910−1911年5代目会長A・M・ラムジーがその雄弁にものをいわせ、“全米ロータリークラブ連合会”においてシカゴクラブが名誉ある指導的地位をもつべきであること、およびその会長としてロータリーの思想を推進するという目的から最適任者を選任すべきであること、そして誰が会長になるかということは問題ではない、どのような理想を達成すべきかが大切であると説いた人ではなく、ロータリーが大切だ、だからポール・ハリスを選ぶべきだと熱弁をふるい、万雷の拍手でポール・ハリスを全米ロータリークラブ連合会の初代会長に推すことに決議したのです。チェスレイ・ペリーは全米ロータリークラブ連合会の第1回大会の議長に選任され、ポール・ハリスを初代会長に選任し、自らその幹事になったのです。

 しかしその後も、全米ロータリークラブの定款をめぐり、また大論争となり、最終的に定款を承認したのは、1年以上経過した1911年6月20日のことでした。この連合会ができて、やっとシカゴクラブ内の親睦派と奉仕派に分かれての抗争に終止符が打たれました。

 全米ロータリー連合会が発足第一番目の事業として、企業倫理の問題を討議・研究して一般的基準を確立すべき委員会の設置を決めました。これを企業経営問題担当委員会と名付けました。会長ポール・ハリスは躊躇することなく、フレデリック・シェルドンを初代委員長に任命して、かつての彼の苦労に報いたのでした。この間にあって、国際ロータリーのその後の慣例確立に重大な影響を与える出来事がありました。

 一つは、ロサンゼルスクラブが1909年に創立され、シカゴクラブの承認を受けてから、同じロサンゼルス内にNational Rotary Clubなるものを、ハーバート・C・クイックなる人物が創立し、会員の勧誘をおこないました。両クラブとも会員がほぼ150名に達しました。結局1912年に両クラブは合意に達し、合併することによって問題が解決しましたが、このことが一行政地区に対するロータリークラブは一つたるべきことと、認証状の必要性を感じさせる重大な先例となりました。

 もう一つは、カナダのウイニペッグクラブの創立によって、ロータリーがアメリカ以外すなわち国際的になったということです。1908年にウイニペッグのP・M・C・マッキンタイヤーがその従兄弟のシカゴクラブ会員ウイリアム・ローダーを訪ねたとき、ローダーは彼にロータリーの話をし、ポール・ハリスとチェスレイ・ペリーを紹介しました。四人は熱心にロータリーの奉仕について語り合い、ウイニペッグにロータリークラブを創立すべきことを勧めました。その後2年間、熱心な文通と激励がつづき、1910年11月3日にカナダのウイニペッグにクラブができ、ロータリークラブは国際的なものになりました。
その次に目標になったのは、英本国でありました。アメリカでできたロータリー思想が、どのようにして英本国に影響を与えることができるかが、最大の課題でした。しかしこの場合、目標達成の見通しがないわけではありませんでした。そのもっとも明るい点は、シェルドンがその経営学理論に基づくセールスマン養成所の分校をロンドンに持っており、そこの代表者として、セイヤ・E・スミスがいたことです。そしてシェルドンの知性と雄弁をもってすれば、理論上の説得はさして困難なことと思われませんでした。

 シェルドンは連合会の命を受けて、ロンドンに乗り込みました。ちょうどその時、ボストンクラブ会員であるハーヴェイ・ウイラーがロンドン支店を開設するため、ロンドンに滞在していました。その三人が協力しあい、その活動が実を結び、1911年にロンドンクラブが誕生しました。その後、シェルドンとスミスがマンチェスターを訪れ、そこにもロータリークラブを設立したとき、アイルランド人のスチュアート・モーローがいました。彼は、アメリカ在住中にサンフランシスコクラブの会員となり、ロータリー思想に共鳴し、その後故郷のダブリンに帰り、そこに自分の発意でロータリークラブを創立しました。 そのことを知ったシェルドンは、ポール・ハリスとチェスレイ・ペリーに報告しました。彼らは大変喜んで、モーローに書状を送り、激励するとともに、イングランドおよびアイルランド各都市にロータリークラブ設立を勧めました。

 モーローはこれに力を得て、ベルファースト、エジンバラ、グラスゴー、リヴァプール、バーミンガムにロータリークラブを創立することに成功します。イギリスにロータリー活動をもたらした功労者としてモーローに賛辞を送る人がいる一方で、彼が新クラブ会員からいくばくかの金をピンハネしていたことをもって、彼の動機に疑問を投げかける人もいます。その後ロータリーを追放されたスチュアート・モーローは再びアメリカに渡り、ソロプティミストクラブの創立者として世の脚光を浴びるという数奇な人生を送ることになります。

 次々と拡大していきましたが、次の課題は非英語国にロータリークラブを創立することでした。ロータリー思想は、単に英語系国民に特有な思想なのかどうかが問題となりました。あるアメリカの商人にキューバのハバナでロータリークラブ創立を依頼しますが、失敗に終わります。そのため、ロータリーはアングロサクソン的な思想に過ぎぬものであるとされるにいたります。
 しかしその後、フロリダのタムバクラブのアンジェル・ケスタとジョーン・ターナーがハバナクラブ創立に成功しました。ケスタはこれに気をよくして、自分の母国であるスペインに帰り、1920年にマドリッドクラブを創立しました。これがヨーロッパ大陸に最初にできたロータリークラブです。

 その後ヨーロッパ大陸内部のロータリークラブの拡大については、フレッド・ティールという人物が活躍し、スペイン、フランス、オランダ、デンマークその他の各国にロータリークラブを創立していきました。そしてこれが契機となって、スイスのチューリッヒにロータリー事務局が設置されることになりました。

 次に南米諸国については、ウルグアイ人ヘリベルト・コアテスが1928年にモンテヴィデオクラブ(ウルグアイはブラジルとアルゼンチンとの間にある小国で、モンテヴィデオはその首都である)を創立するとともに、南米各地にロータリーの拡大を進めていきました。

 このようなロータリーの世界的発展は、多くのロータリアン達の献身的な奉仕によっておこなわれましたが、その中で最も注目すべきは、カナダのカルガリークラブのジェイムズ・ディヴィッドソンの快挙です。

 彼は1921年に友人J・L・ラルストン大佐と協力してオーストラリアのメルボルンとニュージーランドのウェリントンにロータリークラブを創立するとともに、その後RIの委嘱を受けて、1928年から約2年半の歳月を費やして、地中海沿岸諸国ならびにアジアの各地にロータリー拡大の旅に出て、アテネ、イェルサレム、カイロ、ボンベイ、デリー、マドラス、コロンボ、ラングーン、クアラルンプール、セレムバン、イポー、バタヴイア、バンドン、マラン、セマラング、シンガポール、ペナン、バンコック、ホンコン等にロータリークラブを創立したのです。

 このようなロータリーの国際的発展の状況の中から全米ロータリークラブ連合会も国際的にならざるをえず、1912年第3回全米ロータリークラブ連合会で、ついに国際ロータリークラブ連合会と改称することになりました。初代会長にグレン・C・ミードを選び、初代事務総長にチェスレイ・ペリーを選任しました。またその当時健康を害して引退していたポール・ハリスを名誉会長に選出しました。

 チェスレイ・ペリーは、その後32年間にわたり、事務総長の任にあたり1942年高齢のため引退しました。そして事務総長引退後、1947年シカゴクラブの会長に就任しました。彼はロータリーの世界的発展に偉大なる功績を残しましたが、その中で特に注目すべきことは、機関誌『ザ・ロータリアン誌』を自ら編集し、ロータリー思想の普及に力を注いだことです。1910年にポール・ハリスが「合理的なロータリー的なものの考え方」なる論文を書いたとき、これを全米のクラブに知らせるために、1911年1月に雑誌発行を試験的におこなったところ、大成功のため、以後これが今日に及んでいるのです。当時、この雑誌はThe National Rotarianと呼ばれ、現在のロータリアン誌の前身です。

 ところでこのように、ロータリーが世界的な発展をとげる過程において、国際ロータリークラブ連合会の中においても、また各国に散らばるロータリークラブにおいても、ロータリー思想の普及、あるいはその管理について次のような二つの考え方が起こってきました。

 その一つは、ロータリークラブは、国際ロータリークラブ連合会の構成単位をなし、毎年1回国際大会を開いて、共通の問題を討議するのはよいとして、全世界奉仕概念そのものの理解は共通であっても、その表現方法ややり方という点になると、各国各地の風俗習慣に合致しなければなりません。また、奉仕理論そのものの理解の仕方如何によっては、若干の相違が現れてくることもあります。そのため、全世界のロータリークラブの地域性を認め、各地域内の特殊性に応じて、ある程度の集団的自治の原則を認めるべきではないかという考え方、すなわちロータリー組織の地域的運用の問題として、地域の自主性を認めて、それぞれの地域の自治組織の上に国際ロータリー連合会を置こうすとするものです。そのあらわれとして、1914年にイギリスロータリークラブ連合会ができ、これをイギリス、アイルランドの自治組織としました。そして、1914年のヒューストン大会で承認を受けたのです。

 しかしながら、また一方、1915年のサンフランシスコ大会では、世界共通の標準クラブ定款を採用し、国際ロータリークラブ連合会を各クラブ直結する方式をとらなければならないとする考え方が、大勢を占めるようになってきました。すなわち、各ロータリークラブ所在地を地区(District)と呼ばれるものに分け、各地区に国際ロータリークラブ連合会の役員としてガバナーを置き、ガバナーが直接各クラブを指導監督するというものです。

 そしてその頃に裏面では、奉仕哲学の認識が極度に深まるとともに、ロータリアンは個々の自覚を深め、風俗習慣、人種を超えて人と人として結びつけるという認識が深まるにつれ、地域性にこだわっていることが低く見えるという考え方に到達します。また、ロータリーは水平運動であって、人の上に人を作らず、人の下に人を作らずという理論からしても、地域の特殊性を認めるのはおかしいと論じられました。1915年のサンフランシスコ大会では、ロータリーの倫理訓を定め、地区を定めたのであります。しかしながら、すでにできあがっていたイギリスロータリークラブ連合会の既得権を認めないわけにはいきませんでした。

 1922年のロサンゼルス大会で、国際ロータリークラブ連合会が、国際ロータリー(Rotary International RI)と改称したとき、イギリスロータリークラブ連合会もイギリス・アイルランド国際ロータリー(Rotary International in Great Britain and Ireland RIBI)と呼ぶことになりました。その後、1927年ベルギー・オステンド大会でRIの直轄方式が確定したときも、RIBIだけは依然として既得権を尊重されました。

 1934年ポールは、RI会長ジョン・ネルソンと事務総長チェスレイ・ペリーらとともに、一発触発になっていたRIとRIBIとの関係を修復するためにイギリスを訪れました。
 RIとRIBIとの対立点として、次のような問題が考えられています。
◎RIとしては、既得権を主張してことごとく対立してくるRIBIの存在そのものが、疎ましい存在であった。なお、このRIBIに倣って日本が日満ロータリー連合会RIJMを結成しようとする動きがあり、このような中間管理組織結成に伴うRIの弱体化を恐れた。
◎RIBIとしては、アメリカのやり方をそのまま押しつけてくるRIに対する強い反感があった。
◎RIBIはシェルドンの「He profits most who serves best」は、成り上がり者が幅を利かせているアメリカでは必要かもしれないが、伝統的な倫理観を備えているイギリスやヨーロッパ大陸には必要がなく、「Service above self」だけで充分だと主張した。
◎目標設定計画Aims & Objects Planが、RIBIのパイロット・プログラムとして試行され、1927年のオステンド大会で正式に採用されたにもかかわらず、アメリカではなかなか採用されなかった。
◎RIBIが再三にわたって提案したにもかかわらず、アメリカの大都市クラブが一都市一クラブを主張し続けた。(1933年に決議33-26として改正)

 ポールの努力にもかかわらず、会議は双方の意見が噛み合わず大きな収穫はありませんでしたが、取り敢えず、決裂という事態だけは避けることができました。

 1967年のニース大会においてRIBIの地位を実質的に変更することを基本的に了承し、ついに、1968年にRIBIはその形だけが残り、実質的な点はことごとくRIの直轄方式が採用されるようになりました。また、特定の地域にクラブ数が少なく、地区を結成できないものは、当然としてRI理事会が直接監督するという形をとるようになったのです。


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