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ロータリーの歴史を遡る

 1905年にポール・ハリスは3人の仲間とともにロータリークラブを創立しました。各クラブにおきまして、彼の没後50年を記念する行事が行われて、彼の人となりや考え方については、皆さま方は十分理解されていることと思いますが、その話の前提として、ポール・ハリスの生い立ちを簡単に紹介しておきます。彼は決して人に誇れるような素晴らしい家系に生まれたわけではないし、素晴らしい経歴を持った人でもありません。むしろ破産による一家離散とか、粗暴な性格から2回も学校を退学させられるという人生経験を送った人なのです。だから、その逆境の中からいろいろなことを学び、あの人格を自らの手で作り上げていった人でもあるのです。
 彼は大学を卒業してから5年間の放浪の旅に出かけます。「Five years of folly5年間の愚行」といって有名な話です。たまたま卒業式の席上で、先輩の弁護士がスピーチをしました。こういう町の大学を出た法律家の卵は、すぐ目的の場所に行って開業するのではなくて、どこか小さな町にでも行って5年間位は、のんびりといろいろなことを勉強した方がいい。そして充分社会経験を積んだ上で、最終的な場所を決めて弁護士事務所を開業する方が、人生にとってプラスになると演説したのです。
 彼はその言葉を彼なりに解釈して、5年間いろいろなところを放浪するのです。一文無しで、その日の糧はその日の自分の労働で賄うという5年間を過ごすわけです。筋肉労働から、旅役者、ジャーナリスト、カウボーイといろいろな仕事を経験したあげく、ジャクソンビルで、ジョージ・クラークという人に知遇を得て、セールスマンとしてアメリカ南部の各州やヨーロッパの各地を回ることになります。
 彼はそこで豊かな人生経験を積み重ねるわけですが、今日は時間の関係でその話は省略いたします。ヨーロッパのいろいろな国を回ることによって、いろいろな人種があることを知り、いろいろな宗教があることを知り、またいろいろな考え方を知ったわけです。頭の片隅にこういういろいろな世界の人達といっしょに親睦を深めればどんな素晴らしいことだろうという発想が浮かんだのは、このヨーロッパの旅であったと、後に彼は述懐しています。
 こういった貴重な経験を積んだ後に、彼はシカゴに定住します。1986年頃のシカゴは殺伐たる状態の町でした。アメリカに沢山の移民が渡ってきました。アメリカすべてが自由の国とあこがれて集まってきたのです。宗教も毎日の生活も何の規制もなく自由である。能力のある者が巨万の富を得られる。その裏を返せば、何の規制もない自由競争の社会ですから、生き馬の眼を抜く凄まじい競争社会であったことが容易に想像できます。
 さらに1893年にシカゴで万国博覧会があったということで、ある程度のインフラが整っており、そのためにいろいろな人が集まってきました。そしてこの町で一攫千金を夢見ながら、それぞれが商業活動に精を出していったのです。彼らはお互いに容赦することはなかったし、ちょっとでも弱みを見せようものなら、すぐに足を引っ張った。そういう激烈な競争社会の真ん中に、彼は放り出されたわけです。
 知る人もいない殺伐とした大都会の中で、彼は弁護士の仕事に精を出したのですが、残念なことには、彼の元を訪れるクライアントは誰一人としていないという生活が続くわけです。もっとも町の中では、詐欺が横行し、盗?Е???人が徘徊し、倒産が相次ぐという状態ですから、だんだん仕事も増えていったと述懐していますが、精神的なフラストレーションの高まりは相当なものであったことは、容易に想像がつきます。
 そんなある日、彼は郊外に住んでいる知り合いの弁護士の元を訪ねて食事をした後、夜道を散歩します。その弁護士はその土地に古くから住んでいる弁護士ですから、近所に商店主やら、実業家などの沢山の知り合いがいます。その人たちが散歩をしている二人の姿を見て、「やあ、こんばんは」「こんばんは」と挨拶してくれる。ポールはシカゴにきて、はじめてそんな風景を目にしたわけです。
 「ああ、こんな殺伐とした町でも、付き合う人を考えていけばこれだけ親しい付き合いができるのだなあ」と、彼は考えたのです。「そういえば、あの弁護士に挨拶してくれた人はみんな商店主や実業家などその地域の名士ばかりだった。こういう質の高い人達と付き合っていけたらどんないいことだろう」と、彼はそのとき思いついたわけです。
 その後まもなく、彼は自分の育った田舎であるバーモンド州のウォーリングフォードを訪れます。ウォーリングフォードは彼が3歳のとき、父親が破産して、祖父母の所に預けられて、少年時代を過ごした村です。そこに里帰りをしたのですが、そこには彼の幼なじみや、彼を育んでくれた村人たちが沢山います。みんな彼の姿を見ると、「おお、ポール、ポール」と言いながら手を差し伸べてくれるし、笑みを浮かべて近寄ってきます。彼が多感な少年時代を過ごしたこのウォーリングフォードのような素朴で親切で善意に満ち溢れた地域社会、そんなつながりや友情を殺伐とした競争社会のシカゴで作ることができたらどんな幸せだろうかと彼は考えます。そしてロータリークラブという組織を作り出すのです。
 彼は以前からのクライアントであるシルベスター・シールと一緒に、マダム・ガリの店に行きます。イタリアからの移民なのです。カルーソーなどが立ち寄ったおいしいイタリア料理を食べさせてくれる有名な店です。1905年2月23日の木曜日、非常に寒い日で粉雪がぱらつく夜だったという記録があります。そこで二人はロータリーの基本構想について話し合います。
 最初に話し合ったことは、奉仕などという高尚なものではありません。「この殺伐とした町の中で、もしもお互いに心底打ち解けあってどんなことでも相談できる友達ができたらどんなに幸せだろう」そんな話をしたわけです。そしてついでに話したことは、「君は石炭商だろ、私は弁護士だ。いろいろな職業を持った人が集まって、お互いに自分の足らないところを補えば、便利に違いない」ということでした。
 それから二人は、運河を渡ってその向かいにあるノース・ディアボーン街711番地のガスターバス・ロアの事務所に行きました。ロアとハイラム・ショーレーがそこに集まっていて、4人で会合を開きました。それが最初のロータリーの例会だと言われています。お互いに自分の足らないところを補い合い、融通し合おう。そしてお互いに仲良くしながら儲けていこう。エゴイズムに満ちた発想で、ロータリーは発足したわけであります。
 1966年に出版されたThe Golden Strandという本があります。シカゴクラブの元会員オーレン・アーノルドという人が書いた本です。冒頭に「ロータリーは国際的友情という糸で織られた金の織物である」と書かれています。Stranndoというのは織物のことです。これにはさらに「シカゴクラブの非公式歴史」という副題がついています。1966年というと、今から30年前で、古いと言えば古いけれど、新しいと言えば新しい本です。その本の中にロータリー創立の頃の話が詳しく、また生々しく書かれています。著者はロータリアンであったけれど、ロータリーを退会した人で、翻訳することが認められていないのです。コピーライト、著作権をしっかり握っていて、誰にも翻訳を許可しないので日本語版は出版されていません(ちなみに、ロータリーには著作権なるものは存在しません)。全部で28章から成り300ページを越す大作です。真偽は別として、その本の中では、シカゴクラブに対して辛辣な批判が書かれていますし、ポール・ハリスの個人像も相当厳しい表現があります。その内容は錯誤が多いという批判もありますが、ポール・ハリスの自伝を除いては、唯一のロータリーの創世記を記した本であることは間違いありません。
 このほんの第3章のタイトルが「You scratch my back背中を掻いて」なのです。ロータリ?Е???ーはお互いに背中を掻き合うクラブとして出発したのです。ポールの背中はシールが掻く。シールの背中はロアが掻く、ラアの背中はショーレーが掻く。ショーレーの背中はポールが掻く。お互いに自分の商品を原価で提供しながら、利用し合う。ハリー・ラグラスは印刷屋だから、すべての印刷は彼のところに頼む。ついでに用紙や便箋も彼のところで調達する。家の管理や売買は当然のこととして、ジェンセンに頼むし、石炭は全部シールのところから買う。そのかわり何かトラブルが起こればポールに出番が回ってくるというように、お互いに利用しながら助け合うクラブとして、ロータリーは出発したわけです。
 そのような形で初期のロータリアン達は、お互いに助け合いながら太っていきます。ポール・ハリスもシルベスター・シールもこの物質的相互扶助を非常に奨励します。助け合う人のいない町で、お互いに助け合うことのどこが悪いのかという言葉に、反論の余地はなく、アメリカの商習慣の中に新しく芽生えたニュー・アイディアとして、その恩恵を受けるために我も我もと争ってシカゴクラブに入会を希望したわけです。
 1905−6年の週報があります。当時は2週間に1回の例会ですから、週報も2週間毎に発行されていました。その週報に書かれていることは、前回の例会から次の例会までの間に会員間で行われた商取引や紹介のレポートなのです。それと次の例会に出席するか否かのチェック、これは食事の数を確認するための手段で、こういった週報をシカゴクラブは2−3年続けているのです。その報告をするために統計係という役職を設けて、その人が例会毎に報告しているのです。成績が良かったときはみんなで拍手をして「良かった、良かった」と喜び合ったし、取引が少ないときは、頑張ってもっと取り引きしなさいと勧めました。ゴールデン・ストランドにはそんなことが書かれています。いろいろな形で、積極的にお互いの背中を掻き合う作業を進めていった。それが当時のロータリーの姿だったのです。そしてロータリアンはどんどん金持ちになっていくのです。
 当時のロータリーの会費は結構高かったようです。その高い会費に文句を言う会員に、ポールは「君たちは会費が高いと言うけれど、お互いに融通し合うことによって儲けている額の方がよっぽど大きいのだから、高い会費を払うのは当然のことだ」と文章で反論しているのです。そういった状況が1−2年続きます。ところが一部の会員の中から、「自分たちだけがそんなにいいことばかりしていていいのだろうか」という反省の念が出てきます。さらに外部からの批判が強くなってきます。「あいつらはけしからん。2週間に1回集まって、旨いものを食って、お互いに儲けて丸々と太っている。けしからんクラブだ」というような批判が集中したのです。
 ポール・ハリスも非常に困りまして、何とかこの辺でクラブの運営方針を変えなければと考えたのですが、ほとんどの会員は現状に満足しきっています。「こんな素晴らしいクラブはない。おかげさまでうちの店は売り上げも上がって大きく伸びたし、親しい友人も沢山できた。良かった、良かった」ということで、1年半経ったときには、シカゴクラブの会員は200名を超えるまでに増えてきました。
 1906年4月に、ドナルド・カーターの入会を巡って一騒動が起きます。ガラス看板メーカーのフレデリック・ツィードが彼を紹介して入会を勧めます。ツィードは彼に刷り上がったばかりの定款を見せて、このクラブに入ったらこんな特権があるんだ、特典が得られるのだといわゆる物質的相互扶助のメリットを誇らしげに話したというのです。沢山の入会希望者がいたのです。誰でもというわけにはいかないから、資格審査を厳重にしていました。だから入会を勧めてこれを断るなんて予想もしていなかったのです。それを彼は断ったのです。「会員以外の人に、何か利益になることをするクラブには将来性があるが、このクラブはそうではない」彼はそう言って、入会を拒否したのです。
 非常にショックを受けたツィードは、「君の言うことはもっともだ。クラブの運営方針を変えるから君も考え直してほしい。そのためにも、ぜひクラブに入って起爆剤として活躍してもらいたい」と彼を説得します。ポール・ハリスもそのことを聞いて、最近考え出したこと、すなわち、自分たちだけが得をするようなクラブ、このクラブから脱却する時期が来たことを悟ったのです。そこでカーターは、彼の言葉を信じて、1906年8月(5月という説もある)に入会し、彼を中心にしてロータリークラブの今後の方針を一大転換する作業が進んでいきました。
?Е???  当時のロータリー年度は2月から始まって1月に終わっていました。そこで1907年2月にポール・ハリスは3代目のシカゴクラブ会長に就任し、カーターとの約束を果たすために定款を改正するとともに、ロータリークラブの運営方針を大幅に変更します。3つの方針を立てたのです。まず同じ志を持つ人を増やしたいということから、大幅な会員増強を考えます。2番目にこっれと同じスタンスから、この組織をアメリカ全土に広げたいという意味で拡大を考えます。さらに3番目に、カーターとの約束を果たすために地域社会に対する奉仕を考えます。この3つを新しいスローガンとして会員に発表しました。
 何人かの人はこれを受け入れたのですが、ほとんどの人は反対でした。「なぜそんなことをしなくてはならないのか。高い会費を払ってシカゴクラブに入っているのは、儲けるからと勧められたからじゃないか。それなのに、なぜ見ず知らずの他人のために働く必要があるのか」ということで、シカゴクラブの中では大きな論争が起こります。反対側の旗頭はハリー・ラグラスでした。唱歌を始めた人として皆さんご存じですね。ポール・ハリスの意見は真っ向から対立し、ポールが死ぬまで二人は和解することはなかったと文献には書かれています。深い確執ができて、さすがに寛容の精神を説いたポールも二人の関係については理想通りにはいかなかったのでしょう。そのため毎回の例会は親睦どころか、針のむしろの状態でした。ポールを支持する一派は奉仕理念の大切さを主張し、他方は親睦と会員の利益を主張するということで激論がつづきます。興奮したポールは、しばしばテーブルのうえに上がって、拳をたたきながら奉仕の必要性を声高に説いたと言われています。みんな緊張して興奮しながら議論をしているのを見たラグラスが、「みんなそうカッカせずに、歌でも歌って頭を冷やそうよ」といって始まったのが唱歌の起源なのです。
 ポール・ハリスは理論家としてはそんなに優れた方ではなかったようです。だから自分が主張する奉仕哲学をみんなに理解し納得させる手段をいろいろと模索しますが、なかなかうまくいきません。なんと言っても彼はロータリークラブを作った創始者ですからその責任があったわけです。このまま放置しておけば、再びエゴイズムのクラブに戻ってしまう。さりとてみんなを説得する力は自分にはない。そこで理論構築に優れ、また行動力のある二人の人をシカゴクラブにスカウトすることを考えついたわけです。1908年1月に二人の素晴らしい人が入会します。一人はチェスレー・ペリー、もう一人はアーサー・フレデリック・シェルドンであります。
 ロータリーには3人の偉大なる先達がいると言われています。ロータリーのファウンダー、すなわち創立者、ポール・ハリス。そしてロータリーのビルダー、ロータリーの組織を現在の形に作り上げた人、チェスレー・ペリーです。彼は全米ロータリークラブの初代幹事に就任して以来、1942年までの32年間その職にとどまって、現在のRIの基盤を作った素晴らしい人です。そして3番目の人がロータリーに哲学をもたらした人、すなわち職業奉仕を基盤とした奉仕の精神を植え付けた人、アーサー・フレデリック・シェルドンであります。
 シェルドンはミシガン大学の経営学部の出身で、ここで販売学を専攻しました。現在でこそ、経営学はメジャーな分野ですが、当時のメジャーはなんと言っても経済学だったのです。彼が経営学というマイナーな学問、それも販売学という特殊な分野を専攻したが故に、サービスとは何かが解明できたわけです。
 ポール・ハリスは彼の自叙伝であるThis Rotarian Ageの中で、次のようにシェルドンのことを紹介しています。「1908年のある日の夕方、行きつけのミネアポリスの散髪屋で頭を刈ってもらいながら、彼がまとめ上げた言葉がHe profits most who serves his fellows bestである」
 このようにポール・ハリスが紹介しているのですが、このへんの時代考証がはっきりしないのです。シカゴクラブに入会したあとなら、行きつけのミネアポリスの散髪屋に行けるわけはないから、この言葉を思いついたのはロータリーにはいる前だったということになります。彼がシカゴクラブに入ったのは1908年1月ですから、その直前ということが推測できると思います。
 この文章が完成したのが、ロータリーに入る前か後かの議論はさておくとしても、これだけの内容のある文章が一朝一夕作れるわけはありません。す?Е???なわち、彼はロータリー運動にはいる前からこの理念、哲学を持っていたことは確かです。販売学を勉強することによって、それまではなかったサービスという概念を作り上げ、その必要性をみんなに説いて回っていた。しかし個人でその運動をしていてもなかなか浸透しない。その限界を感じて、ロータリーという組織を利用してそれを発表する機会を増やそうとしたのでしょう。
 ロータリーもちょうどその運動に限界を感じている時期であり、理論構築を迫られている時期でもあったので、シェルドンの考え方をロータリーの哲学に置き換えることによって、新境地を切り開いていった。そういういい関係で、新しい哲学を得たロータリーは、これから大きく飛躍するわけです。そんなふうにロータリーの創世記を見ていくと、先達の大きなロマンがよみがえってくるのを感じます。
 私たちが今使っているモットーはHe profits who serves bestであり、シェルドンが最初に考えた言葉はこれにhis fellows が入っています。his fellowsとは自分を取り巻く人達に限られていたことになります。シカゴクラブで当時は会員同士が物質的相互扶助をしていたことを考えれば、fellowsである会員同士の中で奉仕をすれば儲かりますよということにもつながり、その辺の行動とも一致するのです。ただ偉かったのは、his fellowsの世界から1年間で脱却して、その対象を地域社会すべての人に拡大したことなのです。そこに初期ロータリアンの英知を感じます。
 シェルドンはシカゴクラブに入ることによって、発言の機会を得て、いろいろな場を通じてサービスとは何かを説いて回ります。でもはじめてサービスという言葉を聞いた人達はその概念はおろか、その意味すら理解できませんでした。シェルドンの入会によって力をつけてきたポールの一派は、例会毎に奉仕を説き、それをラグラスを中心とする親睦互恵派が迎え撃つ。こんな状態がますます激しくなっていく過程で、2期目の会長に就任したポールは、シェルドンを広報拡大委員長に任命します。
 広報委員長とは現在のロータリー情報委員長にあたる役職で、ロータリーの理想を会員に説得する役目、それと拡大委員長を兼ね合わせた大役を、入会後1ヶ月のシェルドンにやらせたわけですから、親睦派の不満が一気に爆発しました。特にラグラスの反発は強く、二人の中は修復不可能な状態にまでなり、例会は激論の場と化しました。こんな状態に嫌気がさしたポールは、任期を残して1908年10月に会長を辞任します。会長辞任とともにラグラスはシェルドンを広報拡大委員長から罷免します。
 シカゴクラブはまさに分裂の危機を迎えたわけです。それを案じて、今までどちらかといえばラグラスよりだったチェスレー・ペリーが間に入ります。将来ロータリーを伸ばしていくためには、今までの会員間の物質的相互扶助に頼っていてはだめで、奉仕の考え方を導入する必要があることを自覚したチェス派、当時16クラブまで拡大されていたアメリカのロータリークラブの連合体を作ることを思いついたわけです。
 シカゴクラブの中でいくら奉仕理念を唱えても無駄なことだ。それならいっそのこと、奉仕理念の提唱とか拡大を専門にやる組織を作ろうという発想で1910年に作られたのが、この全米ロータリークラブ連合会、現在のRIのオリジナルとなる組織です。
 初代会長にはポール・ハリス、幹事にはチェスレー・ペリーが就任し、それにフレデリック・シェルドンが加わって、3人は水を得た魚のように生き生きと活動を開始します。シカゴクラブは結果的に見放されてしまうわけです。そしてこれから先は、個人的には活躍した人はいるものの、シカゴクラブの存在はかすんでしまいます。
 このように連合会を中心にして、奉仕理念に関する理論構築が進められていき、1910年にシカゴで最初の大会が開催されました。その席上で、シェルドンが述べた言葉が、彼が以前散髪屋でまとめ上げた言葉、He profits most who serves his fellows bestなのです。でもその話を聞いたほとんどの人は、serviceとかprofitsの意味が理解できませんでした。
 「何をしゃべっているの?」「サービスって何?」「サービスって奴隷の仕事をすること?それともメイドの仕事のこと?あっ、そういえば教?Е???会でやっているのがサービスかな?」ほとんどの人はserviceをこんなふうに捉えたと言われています。今私たちが理解しているサービスという言葉に、シェルドンが述べたサービスを結びつけた人は一人もいなかったということなのです。当然の結果としてそのスピーチは大向こうの喝采を受けることもなかったし、それを聞いて感激する人もいませんでした。「あいつ、いったい何をしゃべっているんだ?」そんな感じで彼の演説は聞き流されたのです。
 ポール・ハリスだけは別でした。シェルドンの理論に大いに賛同して、何とかこのサービスの考え方をロータリーの旗印にしていきたいと考えます。そこで早速シェルドンを委員長にした委員会を作って、シェルドンはその作業と平行して、シアトルクラブやポートランドクラブやミネアポリスクラブなどを回って、サービスとは何か、プロフィッツとは何かについて説きます。
 翌1911年、第2回の連合会大会がポートランドで開かれました。シェルドンにとってはサービスを説く絶好の機会が巡ってきたわけですが、どうしてもイギリスへ行かなくてはならない用事ができたため、手紙形式の演説原稿を書いて、それをチェスレー・ペリーが読み上げたわけです。はじめてサービスを説いてから1年が経っており、その間の説得の努力もあって、多くのロータリアンにサービスとは何かという予備知識を持っていました。
 チェスレ−・ペリーがこのスピーチの中核をなす言葉、すなわちHe profits most who serves bestで演説を締めくくると、みんな感激しました。全員が立ち上がって、いわゆるスタンディング・オベーションで彼のスピーチに対して拍手を送ったのです。そして、「こんな素晴らしい考え方を今までしたことはなかった。ぜひこれを我々ロータリアンの座右の銘として努力していこう」ということで、全員の賛成を得てロータリーのモットーとして採択されたわけです。その原稿のさわりを紹介してみたいと思います。
 「ビジネス学はHe profits most who serves bestに基づくサービス学である。いかなる団体の成功も、サービスに従事した成功の集積である。広い意味ですべての人はセールスマンである。それぞれの人はそれがサービスか商品かにかかわらず、売るべきものを持っている。広い意味における人生の成功は、幸運とか機会のみではなく、道徳的、物質的、精神的な自然の法則によって支配される。これらの法則のすべてを調和させる作業こそ、最高の成功を意味する。宇宙を認識するということは、民族の連帯の理解、すべての物の単一性、人間の兄弟愛の現実などという一般的な感覚を開発することである。
 磨かれた人はビジネスのいかなる場所でも、He profits mosy whoserves bestでなければならない。その実態に、事実の実態に気づくべきである」(田中パストガバナー訳)

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