トップページ > ロータリー講座 >職業奉仕講演集 V > 韋駄天は職業奉仕の心
 
韋駄天は職業奉仕の心

 それではいったいどういう心構えが必要なのか。職業奉仕の基本的な心構え、一番広いところから紹介します。
 韋駄天という仏様の話です。韋駄天という言葉は非常に速いことの形容詞に使われます。仏様にもいろいろな位がありまして、最も高いのは如来と言う言葉のついた仏様、すなわち阿弥陀如来、大日如来など。その次の位は、菩薩という言葉のついた仏様、すなわち勢至菩薩、普賢菩薩など。そしてその下の位は、天という言葉のついた仏様、すなわち帝釈天、毘沙門天など。
 この仏様の中に韋駄天という仏様がおられます。韋駄天という仏様はどういう仏様かといいますと、夜のとばりに終わりがきて、東の空が白んできます。やがて太陽が山野はしに昇ってきてチラッとのぞきます。太陽の光がサァーッと大地にさしてくる。その一瞬を捉えて、仏様の懐からでて、仏様のお使いとして、「今日1日、この田中家に仏の幸せがありますように」とお祈りをします。そして扉を閉じて、隣の家に行って扉を開け、同じようにお祈りします。このように太陽の光が射し込んだ一瞬の間に全世界の家庭を訪れて、祈り、再び一瞬のうちに仏様の懐に帰って、「ただいま、全世界の家庭に仏のメッセージを届けてまいりました」と言うことを復命する役目をもった仏様です。
 宇治の万福寺の鈴木江慈という和尚さんが、今の天皇陛下が皇太子殿下であられましたときにこの話をされました。鈴木和尚は皇太子殿下に対して、「あなたはやがて天子様になられるお方であります。今日の老僧との出会いを大切になさって、毎朝、すべての人の幸せを祈る韋駄天という仏のいることを心に留めておいていただきたい」と申されたそうです。
 この話は帝王学の根底に流れる思想を説いております。すなわち。人間ですから好きな人もあれば嫌いな人も、憎い人もいます。そのすべての人の幸せを毎朝祈る、ということは天子様には欠くことの出来ない心構えということができるだろうと思います。
 これをロータリーの職業奉仕の心として引用したのは、これは天皇陛下だけの心ではなくロータリアンも一国一城の主です。毎朝、ロータリアンである社長が会社に出勤してくるときに、うちの社員お給料などはできるだけ抑えて、自分の所得が沢山取れればいい、と思っている社長と、すべての社員の幸せを祈りながら出勤してくる社長とでは会社のあり方が違います。
 韋駄天の心をもった社長の会社はどんな不況期になっても滅多に倒産はしないでしょう。社長の心は自ずと社員に伝わってきます。社長と社員の心の雇用関係がしっかりすれば、強靱な体質の企業に作り上げていくことができる。これが職業奉仕の原理の一つなのです。このように韋駄天の心は、職業奉仕の根底にある心と申してよいと思います。
 ロータリーの職業奉仕の実践、物を売ったり買ったりする取引関係、同業者関係、下請関係、そして自分の企業を管理する企業内管理関係など、その行動すべてに愛情を込める。「打算の世界」ではなく「愛情の世界」の論理ですから、行動に愛を込める。これが大切なことです。
 韋駄天の心はかなり抽象的・観念的な例え話でありますから、ここの具体的な行動に愛を込めるというのはいったいどういうことなのか、もう少し例を挙げて説明いたします。
 昭和初期に2.26事件が起こりました。この事件の時に、教育総監の渡辺大将が暗殺されました。そのお嬢様がライラセミナーの講師をお願いした渡辺和子先生です。一昨年まで岡山の聖心ノートルダム女子大学の学長で、現在日本カトリック教会の会長を務めておられます。
 渡辺先生は、反乱軍が渡辺大将のところへ侵入してきたとき、父親と二人でおられたそうです。父はとっさにまだ小学生だった和子先生を机の下に押し込んだそうです。そして和子先生の1メートルと離れない目の前で、自分の父親が43発の軽機関銃を撃ち込まれて、銃剣でメッタ突きにされて惨殺されました。顔中ぐるぐる包帯巻きにして二目と見られない姿でお葬式を出したとおっしゃっていました。そのことが動機となって修道女になられたのかと思っていましたが、そうではないとおしゃっていました。修道女になれるのは29歳までであり、30歳になるともうなれないそうです。先生は29歳まで娑婆にいて、エリート社員として外資系の会社に勤めておられたのですが、思い切って29歳の時に修道女になられ、アメリカに修行に発たれたのです。
 8月の暑い日に、先生は修道女の閉鎖的な服を着て、150人くらい入る食堂で、やがて夕食にお世話になるお客様のために、ナイフとフォークと皿を並べておられました。そのときに、先輩のシスターが渡辺先生に、「シスター、あなたは今何を考えていますか」と聞いたそうです。「Nothing. 何も考えていません」と答えると、先輩のシスターが、「あなたは時間を無駄にしています」と言いました。渡辺先生は自分の耳を疑ったそうです。意味が分からなくて、「どうして」と聞き返したところ、同じお皿を並べるのならば、やがてそこにお座りになる人のために、なぜ心の中でお幸せにと祈りながら、お皿とフォークとナイフを置かないのですか。何も考えないでただ漫然とお皿とフォークとナイフを並べていく。それは時間を無駄にしていることであると同時に、仕事に愛がこもっていないですよ」と。
 渡辺先生は、「それは私には救いになりました。私はそれまでいかに効率的に仕事をするか、ということは教え込まれましたが、一つ一つの仕事に愛を込める。時間に愛を込めるということは、初めて教わりました。祈ることによって、やがてその席に座る人が果たして幸せになったかどうかわからないけれど、私はその人が幸せになると信じました。これは私にとって一つの信仰になりました」とおしゃっています。
 心の中で祈りながらお皿を置き始めたときと、それまで漫然とお皿を置いていたときと、お皿を置く行動自体は、傍らから見るかぎりは全く同じ行動ですが、心の中で祈っているか否かが大事なのです。この目に見えないところが大変大事なのです。
 渡辺先生はそのことがあってから、「私にとっては雑用というものはなくなりました。雑用というものは、人間が仕事を雑にしたときに雑用になるのであって、どんなつまらない仕事であっても、その仕事に愛を込めるならばそれは雑用ではありません」とおしゃっていました。
 また、昭和天皇がある時侍従に、「この草は何という名ですか」とお聞きになりましたところ、侍従が「それは雑草です」と答えました。天皇は「雑草という名の草はありませんよ」とおしゃったそうです。生きとし生けるもの、皆それぞれ存在意義をもっているのであって、雑草というものはない。物事すべてそのように考えていかなければならないと思います。
 もう一つ例を出しておきます。紙を作って売っているロータリアンの話です。その人は、紙を作る仕事は忙しいばかりで利潤も少ない。朝から晩まで働きづめに働いても、あまり儲からない。自分は悪い星の下に生まれたと思って絶望的にこの世を過ごしていたわけです。ところがある日翻然として悟りました。人々が毎朝食卓にのせるパン、これを清潔な状態で食卓にのせることができるのは、自分が作っている紙あればこそできる。そして食事というものは、単に食欲を満たすためのものではない。アメリカ東部には、食事は宇宙を支配する神の秩序体系の下に帰依する、という考え方があり、食事も一つの宗教的な儀式になります。その儀式に出されるパンを清潔な状態に保つことができる紙は、自分が作ったものであると悟ってから、自分の職業に対する心構えが変わってきました。
 同じように紙を作って売っている、その行動は悟る前と全く同じですが、自分の仕事に愛を込めるというように心構えが変わってから、彼の仕事は職業奉仕の世界に入っていくのです。彼はそれから隆々と栄えたと言われています。
 このように職業奉仕というのは、目に見えないところが大切であり、精神的な奉仕であります。そこでもう少し焦点を絞ります。今一般的な話として、行動に愛を込めるということを申しました。例えば物を売る場合に、お客様のことを考えて仕事に愛を込める。同業者の関係においても、いろいろな取引についてその行動に愛を込める。下請業者との関係においても、常に相手のことを考えて自分の行動に愛を込める。これが職業奉仕の根本原理です。これが愛情の世界の論理をもって打算の世界をコントロールしていくということになるわけです。

↑職業奉仕講演集Vトップ  
←BACK
 
Copyright (C) 2006-2015 Awaji Chuo Rotary Club All Rights Rserved.